2016年11月22日火曜日

5-6世紀の聖書解釈 Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church #5

  • Manlio Simonetti, Biblical Interpretation in the Early Church: An Historical Introduction to Patristic Exegesis (trans. John A. Hughes; Edinburgh: T&T Clark,1994 [1981]), pp. 110-20.
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Manlio Simonetti Anders Bergquist

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隆盛を誇ったアレクサンドリアの伝統も、4世紀の終わりから5世紀の始めにかけて、次第に衰退していった。それは、第一に、オリゲネス論争の影響ゆえであり、第二に、アンティオキア学派の来襲ゆえであった。すなわち、アレクサンドリア学派の没落は、アンティオキア学派の興隆と軌を一にしていたわけだが、5世紀中葉になると、もはや両学派とも往時の勢いを失っていた。学問の中心も、それに伴って、エデッサ、ニシビス、そしてガザに移っていったが、それらは皆かつてのアレクサンドリアやアンティオキアには匹敵しないものだった。

6世紀後半のアグリゲントゥムのグレゴリオスは、表面的な聖書解釈を乳に、またより深い聖書解釈をバターになぞらえつつ、寓意的解釈を行なった。ただし、予型論的解釈や、ときには字義的解釈をも用いたこともあった。

この時期になると、ギリシア語による黙示録注解が初めて書かれるようになった。6世紀から7世紀にかけて活躍したオイクメニトスは、極めて寓意的に黙示録を解釈した。彼はオリゲネスの強い影響下で、黙示録を単に終末論的にだけではなく、より広く教会的に解釈した。同時期のカイサリアのアンドレアスは、黙示録の権威を高めるために、アジア派的な千年王国論を強調した。

6世紀のガザのプロコピオスは、東方における聖書解釈の形式に関して、ターニング・ポイントとなった。彼は、聖書解釈において独自性を打ち出すことをやめ、一節毎に、多くの異なった既存の聖書解釈を抜粋することにしたのである。そうすることによって、読者は教父の聖書解釈を統合的に読むことができるようになった。こうした形式は、カテーナと呼ばれた。通常、カテーナにおいては、ページの中心にある聖書のテクストの周りの欄に、いくつかの聖書解釈が配置され、冒頭には属格でその解釈の著者の名前が書かれている(ただし、その著者名はしばしば間違えていることがある)。抜粋は文字通りの場合もあれば、要約されている場合もある。ディオドロスのように、カテーナでしか読むことのできない著者の作品があるので、現代の研究者にとってカテーナは重要なソースである。ただし、こうした形式が増えたために、きちんとした注解が廃れたことも否めない。

6世紀前半のハドリアノスは、聖書中のさまざまな非合理的な描写を正当化しようとした。たとえば、神人同型説は読者の便宜を図ったのである。

西方においては、蛮族の侵入によって、統一されたローマはなくなり、ローマ文化と蛮族文化とがさまざまに混ざり合う状況を呈していた。そこで、聖書解釈においても、いきなりヒエロニュムスやアウグスティヌスの注解に当たるというよりは、要約を読む方が好まれるようになった。たとえば、5世紀のリヨン司教エウケリウスは、寓意的解釈に基づく短い注解や、問答形式の注解を残している。

ヴァンダル族の支配下にあったアフリカにおいては、アリウス主義との神学的な戦いが行われていた。カルタゴ司教クオドウルトデウスは、倫理的な寓意的かつ予型論的な注解を残している。6世紀初頭のウェレクンドゥス・ユンケンシスもまた、アリウス主義の蛮族の排斥を意図した注解を残している。

西ゴート族支配下のスペインにおいては、セビーリャのイシドルスユリアヌスのように、編集を伴うコンピレーション形式の注解が流行した。6世紀中葉のウルジェイのユストゥスや、ベージャのアプリンギウスは、キリスト論的かつ教会的な解釈を展開した。

ガリアにおいては、4世紀の終わりから5世紀のはじめにかけて、ポワティエのヒラリウスに代表される聖書解釈の隆盛は最高潮を迎えたが、その後は衰えた。アクィタニアのプロスペルの聖書解釈は、師であるアウグスティヌスの要約だったし、サロニウスのそれは、ヒエロニュムス、アウグスティヌスらの聖書解釈を問答形式に再編集したものに過ぎなかった。問答形式への再編集は、ヴィエンヌのアヴィトゥスの注解にも見られる。アルルのカエサリウスは説教で有名だが、彼の説教は、教育を受けていない人々が分かるように、あえて低俗に書かれ、予型論的であれ倫理的であれ、寓意的な彩色が施されている。

ゴート族支配下のローマでは、まだある程度の聖書解釈の伝統が命脈を守っていた。ヴィヴァリウムの修道院にいたカッシオドルスは、アウグスティヌスを中心に、オリゲネス、ヒエロニュムス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらの聖書解釈をソースとして用いた大部の要約聖書解釈を著した。その多くは寓意的なものであったが、しばしば字義的解釈が横に並べられることもあった。この注解は、テーマを共通させつつ統合的であり、なおかつ文法的な解説をも含んでいた。

この時期における聖書解釈上の大きな進展は、5世紀に南仏で活躍したヨハネス・カッシアヌスによる、聖書解釈の四区分である。オリゲネスは、字義的・霊的・倫理的という聖書の三重の意味について言及したが、カッシアヌスはこの「霊的」解釈を「予型的」解釈と「神秘主義的」解釈とに分けることによって、聖書には四重の意味――字義的(historia)、倫理的(tropologia)、予型論的(allegoria)、神秘主義的(anagoge)――があることを示したのである。この四区分は中世に広く普及することになる。

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