2016年3月23日水曜日

ホメロスの寓意的解釈とフィロン Kamesar, "The Logos Endiathetos and the Logos Prophorikos in Allegorical Interpretation"

  • Adam Kamesar, "The Logos Endiathetos and the Logos Prophorikos in Allegorical Interpretation: Philo and the D-Scholia to the Iliad," Greek, Roman, and Byzatine Studies 44 (2004), pp. 163-81.

アレクサンドリアのフィロンは、ストア派哲学に見られる、ロゴス・エンディアテトス(内的ロゴス)とロゴス・プロフォリコス(言い表されたロゴス)の原理を、自身の聖書解釈に適用していた。ストア派の考え方においては、我々が自分の理性の中で思惟するときに用いるのがロゴス・エンディアテトスであり、しゃべるときに自分の思考を表現するときに用いるのがロゴス・プロフォリコスであるとされる。五書を解釈する際に、フィロンはモーセをロゴス・エンディアテトスに、そしてアロンをロゴス・プロフォリコスに当てはめている(『劣者の奸計』38-40、『移住』76-81, 84, 169、『改名』208、『出エジプト記問答』2,27, 44)。

本論文は、それぞれのロゴスを物語の登場人物の性格に当てはめるという、フィロンによく似た解釈が『イーリアス』のDスコリアにも見られることから、互いの思想的な影響関係を検証したものである。『イーリアス』のスコリアは3種類あることが知られており、しばしば、Aスコリアはcritical scholia、Bスコリアはexegetical scholiaと呼ばれる。対するDスコリアは、主としてホロメスの言葉遣いの単純な説明や、神話の補足を扱っているが、それ以外にも寓意的解釈が保存されている場合がある。

本論文が扱う『イーリアス』5.385-391においては、神々を攻撃した人間の例として、軍神アレスを縛ったオトスとエフィアルテスが登場するが、Dスコリアにおいて、アレスは「怒り」と、そしてオトスとエフィアルテスは「教育におけるロゴイ」と解釈された。オトスは、ある者が耳から指導を聞くことで教育されるときに用いられるロゴス・プロフォリコスを表しており、エフィアルテスは、ある者が自然(フュシス)によって自発的に発展するときに用いられるロゴス・エンディアテトスを表している。

明らかに「教育」と結びついたロゴス・プロフォリコスはともかく、自発的かつ自然的に発達するというロゴス・エンディアテトスはどのように「教育」と関係しているのか。そこで論文著者は、ギリシア思想史においてプラトンやイソクラテスの時代から伝統的に存在する、修辞学と哲学との衝突を引き合いに出す。フィロンの思想において、ロゴス・プロフォリコスの訓練は修辞学と、一方でロゴス・エンディアテトスの訓練は哲学と結びついていた。人が神と交流するとき、声を出す器官は姿をひそめ、代わりに言葉を介在しないロゴスが現れるわけだが、この後者の高次のロゴスが、哲学と結びついたロゴス・エンディアテトスなのである。Dスコリアもまた、二つのロゴスを「教育におけるロゴイ」と呼ぶとき、この前提を持っていたと考えられる。

Dスコリアの成立年代を特定することは難しいが、論文著者はDスコリアの解釈の特徴から、おそらくヘレニズムの初期から中期にかけてではないかと論じている。Dスコリアは、『イーリアス』における二人の登場人物として評される「教育におけるロゴイ」が、アレスとして表される「怒り」を縛るのだと解釈しているわけだが、この「教育が怒りをコントロールする」という見解と同様のものが、ポセイドニオス、カリトン、キュレネのシュネシオス、フィロン、そしてカッシウス・ディオに見出されるのだという。論文著者は、ここからこの考え方が少なくともヘレニズム中期にまで遡ると考えている。

論文著者は、Dスコリアの解釈の続きから、同書における寓意的解釈の哲学的な視点を2つ指摘している。第一に、怒りと欲望(エピテュミア)とを並置することは、魂の非理性的な部分に関するプラトン思想との関わりを想起させる。これは、ポリュビオス、パナイティオス、そしてバビロニアのディオゲネスらにも見られる。第二に、解釈の続きで今度はヘルメスがロゴスを表し、同時に怒りがやや肯定的に描かれるが、こうした肯定的な怒りは勇気と関わっているとして、テオフラストス、パナイティオス、そしてバビロニアのディオゲネスらに見られるものであるという。以上の2点から、論文著者は、Dスコリアの哲学的な背景は、ストア派はストア派でも、バビロニアのディオゲネスとかなり近いものであると考えている。

本論文の結論として、著者は以下の3点を挙げる:第一に、フィロンによるモーセとアロンとをそれぞれロゴス・エンディアテトスとロゴス・プロフォリコスとに当てはめるという寓意的解釈は、Dスコリアにおけるオトスとエフィアルテスとの解釈にインスパイアされたものである。第二に、フィロンのテクストとDスコリアとを比較すると、両者はストア派の考え方を「応用」していることが分かる(修辞学と哲学とをそれぞれのロゴスに結び付けることで、全体的に教育の議論へと持っていく、など)。第三に、この解釈はヘレニズム期のアリスタルコスの時代にはすでにあったものであり、おそらく彼もこれを知っていた可能性がある。

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