2016年3月15日火曜日

新約聖書中の旧約引用 Allison, JR., "The Old Testament in the New Testament"

  • Dale C. Allison, JR., "The Old Testament in the New Testament," in The New Cambridge History of the Bible, 1, From the Beginnings to 600, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), pp. 479-502.
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本論文は、新約聖書中の旧約引用について概観したものである。いわゆる「旧約聖書」を引用したり暗示したりするのは、新約記者に限らず、多くの古代ユダヤ文書がしてきたことである。中でも新約は数多くの引用をしており、直接的な引用と認められるだけでも225箇所があるという。このことは、新約記者の旧約知識の深さのみならず、その読者のリテラシーの高さをも伺える。

マタイ、ヨハネ、パウロ、そして黙示録はヘブライ語聖書の知識を持っていたと思われるが、他の多くの新約記者はギリシア語訳聖書から引用している。中でも多く引用されているのは、五書(特に創世記)、詩篇、イザヤ書である。この傾向は、新約聖書以降にも見られるもので、エウセビオスまでのキリスト教作家、死海文書、偽典、フィロンや一部のラビ文学でも似たような傾向を見ることができる。この三書に次ぐのは十二小預言書とダニエル書である。

引用は、多くの場合、権威を付加するために行われる。キリスト者同士の議論においても、結局は聖書の解釈が決め手となるし、一方で、キリスト教の外部のユダヤ人との議論においても、イエスの行状がユダヤ的な観点から認められづらいときに、聖書の引用がその正当化に役立った。旧約の引用は、イエスのことやイエスが関わった出来事がすでに預言者たちによって預言されていたことを示すのである。引用するときには、おそらく共通のテスティモニア(イエスが預言的な期待の成就であったことを証明する聖句の引用集)が用いられたようである。新約記者たちはしばしば引用元を誤ってしまうことがあるが、それはこの共通のテスティモニアがそもそも誤っていたからだと考えられる。旧約の引用はしばしば現在形でなされるが、これは死海文書のように、旧約の預言が、新約記者の同時代の出来事と密接に関わっていると考えられていたからである。

暗示は同定するのが困難である。しかし、暗示を組み込むことによって、読者をより能動的にする効果がある。イエスの奇跡譚には、多くの旧約からの暗示が見られる。現在の学者はこの事実を、奇跡譚が創作であることの証拠と見るが、古代のキリスト教作家たちは、これを信仰の擁護に用いたのだった。暗示を同定するのは難しいが、論文著者は7つのポイントを指摘している:
  1. 共通の語彙、語順、テーマ、イメージ、構造、状況を持っていること;
  2. 上の要素が、あまりありふれすぎていないこと;
  3. あるテクスト(例:創世記)が別のテクスト(例:ヨハネ福音書)の伝統において卓越したものであること;
  4. あるテクストの著者が、別のテクストに他の箇所でも関心を持っていること;
  5. 聖書解釈史において、その暗示の妥当性が高いものであると認められていること;
  6. ある箇所が暗示であると解釈することで議論やテーマと合致しつつ意味を高めること;
  7. ある箇所が暗示であると解釈することで解釈上の困難が除かれること。
また、個別の引用だけでなく、マタイの14-15章における一連の詩篇からの引用のように、ひとつのシリーズとなっているものもある。同様の例としては、マタイの冒頭と出エジプト記、またルカと列王記上におけるエリヤとエリシャの物語などがある。

古代における新約聖書の読者は、こうした引用や暗示を敏感に察知していた。これは現代の読者よりも、日常的に礼拝に出席していた古代の読者の方がより敏感であったろうと思われる。引用や暗示を察知する能力は、書物を読める能力があったかどうかとは、必ずしも関係ない。文字が読めなくとも、聖書に関する広い知識を持った人たちはいたはずである。

新約記者は、しばしばもとの文脈を無視して引用することもあった。しかし、たとえばパウロがもとの文脈を無視していたとしても、彼の議論を全体として見たときに、引用元の文脈に沿っていることもある。すなわち、新約記者たちは、ただ単に個別の一行一行を引用しているのではなく、全体の文脈ごと移していることがあるのである。確かに、聖書を引用することは、神の言葉を引用するということであり、すなわち、自分のテクストに権威を付加することであったが、もともとユダヤ教にとて、もとの文脈を離れて引用することはさほど奇異なことではなかった。

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