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2012年2月27日月曜日

アガダーの本質 Heinemann, "The Nature of the Aggadah"

  • Joseph Heinemann, "The Nature of the Aggadah," in Midrash and Literature, ed. Geoffrey H. Hartman and Sanford Budick (New Haven/London: Yale University Press, 1986), 41-55.
0300034539Midrash and Literature
Geoffrey H. Hartman Sanford Budick
Yale Univ Pr 1986-04
by G-Tools

アガダー(ユダヤ教説話文学)に関する概説的な論文を読みました。この論文は、ヨセフ・ハイネマンの代表的な著作である『アガダーとその発展』(ヘブライ語)の第1章を英訳したものです。
B000KYMEGEAggadah and Its Development - HEBREW
J. Heinemann
Keter 1974by G-Tools

アガダーというタームは密接に「話すこと」と関係しているわけですが、それは第一に、パレスチナの文書で使われるハガダーという語(ハイネマンによるとアガダーの同義語[筆者注:要確認!])の動詞形「述べる」(להגיד)が、「(物語を)語る」(לספר)という動詞と同じ意味であること、第二に、ハガダー(=アガダー)という言葉がミドラッシュ文学における定型句「聖書曰く」(מגיד הכתוב)という言い回しに由来するものであること、から分かるそうです。そしてアガダーとは何か、という定義については、伝承方法の観点から言えば、「公けの説教において口頭で伝わってきた伝承」、そして内容的な観点から言えば、「ミツバー(ユダヤ教の法)以外の部分」という言い方ができます。後者のような否定的な定義の仕方は、中世から伝わる伝統的なものです。

ユダヤ賢者たちは創造的な聖書解釈することによって、激変する現実にトーラーを対応させようとしたわけですが、ハイネマンはアガダーを次の3つのカテゴリーに分けています。1)聖書物語に関するアガダー、2)聖書以後の人物・出来事を記す「歴史的」アガダー、3)宗教・倫理の指針となる「倫理・教化的」アガダー。とはいえ、聖書アガダーも歴史的要素を含んでいますし、逆もまたしかりなので、言うまでもなくこれらは完全な区分ができるものではありません。賢者たちは、アガダーの物語性・娯楽性を打ち出すというよりも、聖書に従属しつつそこに新たな意味を見つけ、倫理的な教えを引き出すという目的を持っていたため、あまり独立した形式には拘りませんでした。
... the bulk of talmudic-midrashic Aggadah does not stand by itself but rather serves the Bible, explicating and elaborating it, and also adapting it ... to present needs. For this reason rabbinic aggadot generally did not take the form of epic stories or extensive independent works. Since these rabbinic aggadot were most often told during the public homily which was linked to the reading of the scriptual lesson in the synagogue, they were automatically related to the relevant biblical stories.(p. 47)
賢者たちは、単に聖書テクストの内容のみならず、一件無関係な単語レベルからの解釈まで進むこともあり、その際にはしばしば聖書のコンテクストが無視されることすらありました。またそうして聖書の隠れた意味を探すだけでなく、シナゴーグの聴衆たちの宗教的な問題を解決し、導きとなり、そして彼らの信仰を強めるような解釈をしようとしましたので、アガダーは抽象的な議論というよりは、具体的な物語のかたちを取ることが多くなりました。
... most aggadot have two levels of meaning, one overt and the other covert. The first deals openly with the explication of the biblical text and the clarification of the biblical narrative, while the second deals much more subtly with contemporary problems that engaged the attention of the homilists and their audience.(p. 49)
アガダーの特徴はハラハー(法)との比較によっても浮かび上がってきます。実際のところタルムードなどでは、両者の区別は判然としない場合があり、最初ハラハー的な議論から始まった箇所も、最終的にアガダー的な解決がなされることすらあるようですが、ハイネマン(およびアブラハム・ヨシュア・ヘシェル)はハラハーとアガダーとを、パンとワインに比すことで、両者の違いを説明しています。
Talmud, that is, Halakhah, is characterized as man's chief nourishment without which existence is impossible; but, like wine, Aggadah "wears a smile." ... Man does not live by bread alone; wine has something that bread lacks—there is no joy without wine and one does not sing songs except over wine.(pp. 51-2)
むろんこうした比喩はアガダーを肯定的に扱っているわけですが、バビロニアのアモライームたちの中には、アガダーの自由度の高さを批判する者たちもいました。彼らによれば、ハラハーに関しては、自分の師から聞いたものをそのまま次の世代に教えていけばよいわけですが、アガダーに関しては、自分の師からの教えのみならず、付加や逸脱が容易になされてしまうことが問題なのです。しかしハイネマンによると、こうしたアガダーへの否定的評価というのは、ラビ・ユダヤ教の伝統を脅かすセクトによるアガダー創作(外典・偽典などに結実する)の急増が理由の一つと考えられるそうです。

4 件のコメント:

  1. もうずいぶん前のことですが、たぶんタルムードかなにかの日本語への抄訳だったでしょうか、「ユダヤの知恵文学」に関する本を読んだことがあります。
    内容的に古代の教父たちが読んだものと同じがどうかはわかりませんが(たぶん違うかも)、まあよく言えば極めて多様性に富んでいる、悪く言えば雑駁というか玉石混淆、という感想を持ちました。
    ヒエロニムスがアガダーに対して取ったという態度も、それを二律背反と見る向きもあるのでしょうが、一カトリック信者として(少なくとも私個人的に)は、非常によく理解できます。
    「自由度の高さ」に由来するのがどうかわかりませんが、厳しい言い方をするならば(私が考えているキリスト教的な価値観からすれば)、そこには、非常に重要と考えられるものから、さして取るに足らないと思われるものまで、雑然と混在しているように思えるからです(こんなことを書くとユダヤ教の人たちに怒られるかもしれませんが、あくまで私の個人的な感想であって、反ユダヤ主義とかユダヤ教批判のつもりではありませんので、念のため)。

    カトリック信者の立場からすると、「ユダヤの知恵文学」を読んでいて驚くとともに生じる疑問は、その「自由度の高さ」もさることながら、「いったいどうして、何がきっかけで、ユダヤ教はこういう方向性に"発展"していったのだろうか?」というところです(発展という表現が適切かどうかわからないので、""をつけましたが)。
    とにかく、そこが一番の疑問です。
    私の認識では、キリスト教で少なくともカトリック教会に関しては、そういう方向性での"発展"はなかったように思います(ここはカトリックの外部の人たちの目から見ると意見は分かれるところかもしれませんが)。

    教父時代のユダヤ教とキリスト教の関わりというのは、個人的には非常にデリケートな問題のように思われ、今まであまり踏み込んでは来なかったというのが正直なところです。

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  2. Josephologyさん、コメントをどうもありがとうございます。

    >そこには、非常に重要と考えられるものから、さして取るに足らないと思われるものまで、雑然と混在しているように思えるからです

    私はタルムードをさほど詳しく知る者ではありませんが、おそらくJosephologyさんのこの感想は、極めて正確にタルムードの特徴を捉えておられるのではないでしょうか。ラビ文学の特徴のひとつは、すべてを保存しておくということだと思います。ありがたいユダヤ教の金言の数々を期待して初めてタルムードを読むと、一件取るに足らない議論に幻滅してしまった、というのはどうやらよくあることのようですが、そもそもタルムードをはじめとするユダヤ教古典は、議論の保存を目的としているのですから、すべてがいわゆる「ありがたい教え」ではないというのは当然でしょうね。

    >「いったいどうして、何がきっかけで、ユダヤ教はこういう方向性に"発展"していったのだろうか?」というところです

    ではなぜユダヤ教はすべての議論を保存しなければならなかったのかというと、やはりディアスポラが深く関係しているのではないでしょうか。エルサレムが陥落し、第二神殿が破壊されたあとで、各地に散らばったユダヤ人たちが正確にユダヤ教の実践を続けていくためには、いかなる些細な議論でさえも保存し、共有しなければならなかったはずです。そのときどの議論が重要でどれが重要でないか、という判断は、実際に答えを必要としている人がするべきであって、記録を保存する人がすることではないと考えたのでしょう。

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  3. お答えありがとうございました。

    確かに、第二神殿時代(特にイエスの時代)のユダヤ教では、神殿や神殿のある聖なる町エルサレムの存在感というのは、非常に大きなものであったようですね。
    ユダヤ教にとって一つの頂点ともいえる時代だった、といっても過言ではないですね。
    それに比べると、偶像崇拝や異教の神々の崇拝といった問題をなかなか清算できなかった第一神殿時代の方は、まだまだ宗教的には「幼い」印象です。

    神殿やエルサレムを喪失した、というのは確かに想像以上に深刻な問題だったでしょう。
    しかし、その状態のままで二千年近くも続いてしまっているのですから、それはそれでまた別の意味で驚きではありますね。

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  4. >確かに、第二神殿時代(特にイエスの時代)のユダヤ教では、神殿や神殿のある聖なる町エルサレムの存在感というのは、非常に大きなものであったようですね。

    新約聖書を読む者にとって、イエスと神殿の関係というのは重要な問題ですね。ユダヤ教にしてもキリスト教にしても、神殿の崩壊は大きな意味を持っていると思います。

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