tag:blogger.com,1999:blog-53300506420883619.post330471048757216877..comments2023-10-26T22:50:04.887+09:00Comments on タマゴからリンゴまで: アガダーの本質 Heinemann, "The Nature of the Aggadah"virtrilinguishttp://www.blogger.com/profile/08567403580334212676noreply@blogger.comBlogger4125tag:blogger.com,1999:blog-53300506420883619.post-82124938556774965052012-03-01T03:16:22.070+09:002012-03-01T03:16:22.070+09:00>確かに、第二神殿時代(特にイエスの時代)のユダヤ教では、神殿や神殿のある聖なる町エルサレムの存在感...>確かに、第二神殿時代(特にイエスの時代)のユダヤ教では、神殿や神殿のある聖なる町エルサレムの存在感というのは、非常に大きなものであったようですね。<br /><br />新約聖書を読む者にとって、イエスと神殿の関係というのは重要な問題ですね。ユダヤ教にしてもキリスト教にしても、神殿の崩壊は大きな意味を持っていると思います。virtrilinguishttps://www.blogger.com/profile/08567403580334212676noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-53300506420883619.post-46481086470217003382012-02-29T16:15:33.514+09:002012-02-29T16:15:33.514+09:00お答えありがとうございました。
確かに、第二神殿時代(特にイエスの時代)のユダヤ教では、神殿や神殿...お答えありがとうございました。<br /><br />確かに、第二神殿時代(特にイエスの時代)のユダヤ教では、神殿や神殿のある聖なる町エルサレムの存在感というのは、非常に大きなものであったようですね。<br />ユダヤ教にとって一つの頂点ともいえる時代だった、といっても過言ではないですね。<br />それに比べると、偶像崇拝や異教の神々の崇拝といった問題をなかなか清算できなかった第一神殿時代の方は、まだまだ宗教的には「幼い」印象です。<br /><br />神殿やエルサレムを喪失した、というのは確かに想像以上に深刻な問題だったでしょう。<br />しかし、その状態のままで二千年近くも続いてしまっているのですから、それはそれでまた別の意味で驚きではありますね。Josephologynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-53300506420883619.post-34998182114209870502012-02-27T20:46:31.066+09:002012-02-27T20:46:31.066+09:00Josephologyさん、コメントをどうもありがとうございます。
>そこには、非常に重要と考えら...Josephologyさん、コメントをどうもありがとうございます。<br /><br />>そこには、非常に重要と考えられるものから、さして取るに足らないと思われるものまで、雑然と混在しているように思えるからです<br /><br />私はタルムードをさほど詳しく知る者ではありませんが、おそらくJosephologyさんのこの感想は、極めて正確にタルムードの特徴を捉えておられるのではないでしょうか。ラビ文学の特徴のひとつは、すべてを保存しておくということだと思います。ありがたいユダヤ教の金言の数々を期待して初めてタルムードを読むと、一件取るに足らない議論に幻滅してしまった、というのはどうやらよくあることのようですが、そもそもタルムードをはじめとするユダヤ教古典は、議論の保存を目的としているのですから、すべてがいわゆる「ありがたい教え」ではないというのは当然でしょうね。<br /><br />>「いったいどうして、何がきっかけで、ユダヤ教はこういう方向性に"発展"していったのだろうか?」というところです<br /><br />ではなぜユダヤ教はすべての議論を保存しなければならなかったのかというと、やはりディアスポラが深く関係しているのではないでしょうか。エルサレムが陥落し、第二神殿が破壊されたあとで、各地に散らばったユダヤ人たちが正確にユダヤ教の実践を続けていくためには、いかなる些細な議論でさえも保存し、共有しなければならなかったはずです。そのときどの議論が重要でどれが重要でないか、という判断は、実際に答えを必要としている人がするべきであって、記録を保存する人がすることではないと考えたのでしょう。virtrilinguishttps://www.blogger.com/profile/08567403580334212676noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-53300506420883619.post-84194814899684058662012-02-27T11:25:48.454+09:002012-02-27T11:25:48.454+09:00もうずいぶん前のことですが、たぶんタルムードかなにかの日本語への抄訳だったでしょうか、「ユダヤの知恵...もうずいぶん前のことですが、たぶんタルムードかなにかの日本語への抄訳だったでしょうか、「ユダヤの知恵文学」に関する本を読んだことがあります。<br />内容的に古代の教父たちが読んだものと同じがどうかはわかりませんが(たぶん違うかも)、まあよく言えば極めて多様性に富んでいる、悪く言えば雑駁というか玉石混淆、という感想を持ちました。<br />ヒエロニムスがアガダーに対して取ったという態度も、それを二律背反と見る向きもあるのでしょうが、一カトリック信者として(少なくとも私個人的に)は、非常によく理解できます。<br />「自由度の高さ」に由来するのがどうかわかりませんが、厳しい言い方をするならば(私が考えているキリスト教的な価値観からすれば)、そこには、非常に重要と考えられるものから、さして取るに足らないと思われるものまで、雑然と混在しているように思えるからです(こんなことを書くとユダヤ教の人たちに怒られるかもしれませんが、あくまで私の個人的な感想であって、反ユダヤ主義とかユダヤ教批判のつもりではありませんので、念のため)。<br /><br />カトリック信者の立場からすると、「ユダヤの知恵文学」を読んでいて驚くとともに生じる疑問は、その「自由度の高さ」もさることながら、「いったいどうして、何がきっかけで、ユダヤ教はこういう方向性に"発展"していったのだろうか?」というところです(発展という表現が適切かどうかわからないので、""をつけましたが)。<br />とにかく、そこが一番の疑問です。<br />私の認識では、キリスト教で少なくともカトリック教会に関しては、そういう方向性での"発展"はなかったように思います(ここはカトリックの外部の人たちの目から見ると意見は分かれるところかもしれませんが)。<br /><br />教父時代のユダヤ教とキリスト教の関わりというのは、個人的には非常にデリケートな問題のように思われ、今まであまり踏み込んでは来なかったというのが正直なところです。Josephologynoreply@blogger.com