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2019年12月20日金曜日

ヒエロニュムスの聖地巡礼観 Bitton-Ashkelony, "Jerome's Position on Pilgrimage"

  • Brouria Bitton-Ashkelony, Encountering the Sacred: The Debate on Christian Pilgrimage in Late Antiquity (Berkeley: University of California Press, 2005), 65-105.


385年の冬に、ヒエロニュムスはローマを離れてパレスチナの地に到着した。ローマをあとにした理由は完全には分からないが、パウラとの関係を怪しまれて教会で弁明しなければならなかったことや、教皇ダマススの死などによって、ローマでの立場が危うくなったのであろう。自身はこの移動を、バビロン捕囚から逃れてエルサレムに帰還する、と表現している。ヒエロニュムスは最初から巡礼するだけではなく移住するつもりだったが、巡礼者としての情熱も併せ持っていた。

ヒエロニュムスの巡礼のメイン・ソースは、パウラの死を嘆くエウストキウムを慰めるために404年に書いた『書簡108』である。ここでは、キリスト教信仰のために、遺跡に実際に行くことが重要だと説いている。『ルフィヌス駁論』第3巻にもローマ出発の経緯や巡礼のあらまし、そしてベツレヘム定住までの状況が描かれている。他にも、聖地巡礼の重要性については、エウセビオス『オノマスティコン』翻訳、『書簡46』、『書簡76』、『歴代誌(七十人訳)序文』、『書簡46』などに言及がある。ところが、ヒエロニュムスはニュッサのグレゴリオスがそうであるように、『書簡58』では聖地巡礼を批判してもいる。本論文では、聖地巡礼を勧める『書簡46』と、それを批判する『書簡58』を中心的に論じている。さらに殉教者を祭る祭儀について『ウィギランティウス駁論』が取り上げられる。

『書簡46』は386年にマルケラ宛に書かれ、マルケラにベツレヘムや聖地に来るよう招く護教的な内容になっている。ここには明らかにヒエロニュムスの聖地巡礼に対する肯定的な態度を見ることができる。それは自分自身の聖地巡礼を正当化するためでもあった。ヒエロニュムスは、新約聖書の出来事が起き、預言者や聖人の誕生の地であり、またイエスが復活した地である(マタ27:52-53)エルサレムに特別な地位を与えている。すなわち、エルサレムのキュリロス同様に、地上のエルサレムに価値を見出している。これは、天上のエルサレムにしか価値を認めないオリゲネスやエウセビオスとは大きく異なる点である。『書簡47』でも「主の足がかつて立った場所で礼拝するのは信仰の一部」だと主張している。

ヒエロニュムスはこの自説に対する仮定の疑問を投げかける。エルサレムは選ばれた都市ではあるが、その特別な地位はイエスがその破滅を預言したことで失われたのではないか、と。これに対しヒエロニュムスはシンプルに、イエスが本当にエルサレムを愛していなかったら、その陥落を嘆いたりはしなかったろうと答えた。さらに、罪があるのは住人であって都市そのものではないというロジックも使った。

イエスの墓という特定の場所を訪れることはがキリスト者にとって宗教的な義務であるという、新約聖書に基づかない考え方は、他に類を見ないヒエロニュムスの発明といえる。これは天上のエルサレムこそが至上であると考えるパウロ書簡とは大きく対立するものである。ただし、彼は、全能であるはずの神の存在が、ある特定の場所にしか存在しないと言おうとしているのではない。このロジックはニュッサのグレゴリオスが巡礼を否定するときに用いたものである。ヒエロニュムスによれば、エルサレムは修道的な中心地であり、修道士の質も高いので、巡礼する価値があるという。

ベツレヘムに住んでしばらくすると、ヒエロニュムスの巡礼に対する情熱は弱まった。ノラのパウリヌスに宛てて395年に書かれた『書簡58』では、エルサレムを見たことがないからといって信仰が欠けているなどと思うべきではないと主張した。『書簡46』と『書簡58』に見られる相矛盾した見解について、J. Prawerは、大衆的な宗教の表現と正統派キリスト教の展望から説明している。F. Cardmanは、『書簡58』を巡礼に反対するキリスト教神学者の典型的な修辞法だと考えている。ただし、PrawerもCardmanもヒエロニュムスの見解が鍛えられた歴史的なコンテクストを論じておらず、非歴史的なアプローチに終始している。

これに対し、F.M. AbelやMaravalらはヒエロニュムスの当時の人間関係を考慮に入れている。『書簡58』は彼がオリゲネス主義論争に巻き込まれ、エルサレムのヨアンネスとの関係が悪化していた時期の著作である。ヒエロニュムスは自分が破門されていたエルサレム教会をパウリヌスに訪れてほしくなかった。そこで聖地巡礼の宗教的な重要性を最小化しなければならなかったのである。アントニオスやヒラリオンなど有名な修道士たちがエルサレムを特別視しなかったように、修道的生活を送っている者は聖地を訪れる必要がないのである(とはいえ、グレゴリオスのように、聖地巡礼によって霊的なダメージを受けるとまでは主張していない)。こうしたロジックは『書簡46』において自ら否定していたものであった。伝統的見解にオリジナルな議論で反論していた『書簡46』に対し、『書簡58』ではむしろそうした非オリジナルな教会の公式見解をただ代表している。すなわち、キリスト教の福音は全世界に知らされているので、イエスが生きた場所にこだわる必要はないし、そうした特別な場所は心の中に持てばよいという考え方である。

むろん、自分自身がすでに聖地を巡礼し、聖地のそばに住んでしまっているという矛盾にヒエロニュムスは自覚的であった。しかし、聖地巡礼を支持するにしても、修道士にとっては不必要だと主張するにしても、ある場所が聖なる場所であることと神的存在が特定の場所に限定されることとは無関係だと主張したのである。聖地巡礼を否定しようとしているわけではないが、積極的に支持しているわけでもない。『書簡58』の目的は、聖地巡礼を否定することでも、『書簡46』の立場を取り消すことでも、地上のエルサレムと天上のエルサレムに関する神学的議論を展開することでもなかった。修道士にとって修道的生活を追及するにはどのような場所がよいか、というのが論点であった。『書簡46』では、聖地としてのエルサレムはその目的に適しているとされていたが、『書簡58』では、エルサレムの教会との関係悪化もあり、エルサレムに巡礼する必要はないと主張したのである(ただし、『書簡58』で否定的に論じられているのはエルサレムについてのみで、ベツレヘムは依然として最も尊い場所とされている)。

エルサレム教会との確執が終わると、ヒエロニュムスはまた巡礼を推奨している(『書簡68』『書簡71』『書簡76』『書簡145』『書簡122』)。それが最もはっきりと現れているのがパウラの聖地巡礼を描いた『書簡108』である。このときには聖地巡礼はすでにノスタルジーになっていた。しかし、ここでもオリーブ山については言及を避けようとしている様子が見られる。ヒエロニュムスの中で、エルサレム教会との確執は許されてはいたが、決して忘れられてはいなかったのであろう。

殉教者の墓を詣でるについて、ヒエロニュムスは若い頃から積極的だった。特にローマでは、殉教者の墓参りは祭儀と密接に関係しており、4世紀の後半には幅広い地域で行われる習慣になっていた。このことについて、ヒエロニュムスは最も手ごわい敵対者の一人であったスペインのウィギランティウスと激しい議論を交わしている(ウィギランティウスは395年と396年にパレスチナを訪れ、ヒエロニュムスやルフィヌスに面会している)。その記録である『ウィギランティウス駁論』は神学的な議論というより、主として悪口雑言のよせあつめで、教父文学において最も生々しく攻撃的な文書である。

『ウィギランティウス駁論』を通じて知られる彼の主張は、殉教者の魂は墓に留まり、神には届かないので、殉教者が信仰者のための仲介者になることは不可能である、というものだった。そして殉教者の遺跡は不浄で無価値なものなので、それを崇拝することは偶像崇拝に等しいと言うのである。これに対し、ヒエロニュムスは「崇拝する(adorare)」ことと「尊敬する(honorare)」ことを区別した上で、殉教者の墓参りでは後者を行うのだと主張した。殉教者を崇拝するのではなく尊敬することは、偶像崇拝には当たらない。これはアウグスティヌスものちに用いたロジックである。

キリスト教徒の中には、殉教者の墓参りが異郷の祭儀と似ていることに危惧を覚える者がいたが、ヒエロニュムスはむしろそこにこそ護られるべきローマの伝統を見て取った。祭儀に関する異教的なコノテーションを恐れないというところに、ヒエロニュムスの特徴がある。死んだ人間である殉教者が信仰者を助けないという議論については、ヒエロニュムスは、殉教者は死んでいるのではなく眠っているのだと反論した。殉教者の墓が不浄であるという点については、多くの尊敬される人々を引き合いに出し、彼らが不浄なのかと問うた。ヒエロニュムスは純粋に神学的な議論をしているわけではないので、殉教者の墓参りに権威を付与できれば何でもよかったのである。

このように見てくると、ヒエロニュムスによるキリスト教的聖地に関する見解は、これまで考えられてきたよりも一貫している。

2019年12月18日水曜日

エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山のイメージ Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives"

  • Rodney Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives: A Critical Investigation of Epistula 108," Holy Land Studies 4 (2005): 41-54.

メラニアとルフィヌスは370年代からオリーブ山で修道院を営んでいた。386年にはヒエロニュムスとパウラがベツレヘムで修道院を始めた。4人とも知り合いだったので、ヒエロニュムスたちがパレスチナにやってきたときには旧交を温めるような会談があったと思われるが、オリゲネス主義論争によって両陣営は敵対する。404年のパウラの死後、ヒエロニュムスは『書簡108』を著して彼女の死を悼んだが、その中で385年に聖地を旅したことに触れている。注目すべきは、エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山についての記述で、特にオリーブ山の説明には歪曲が見られる。本論文はその理由を、ルフィヌスとメラニアとの関係の悪化からの影響だと主張している。

『書簡108』は、ヒエロニュムスが唯一本当に愛情を感じていたと思われるパウラの死を悼むもので、丸二晩の口述によって著されたという。この中での聖地巡礼の場面にヒエロニュムス自身は登場しないが、おそらく実体験を書いているものと思われる。ただし、この書簡が書かれたのは実際の巡礼から20年も経ってからなので、その後得た知識も反映している可能性には注意を払う必要がある。とはいえ、一旦住み着いてからのヒエロニュムスはほとんど巡礼らしいことはしていない。

エルサレムにおいて、パウラはさまざまな場所を訪れたはずだが、『書簡108』では、イエスが十字架に架けられたところ、復活した墓所、シオンの古代の砦にしか触れていない。パウラは聖書の出来事を想像しながら、狂信的なといってもいいほどの情熱をもってエルサレム各地を巡礼した。ヒエロニュムスのエルサレム描写は、町全体が聖なるものというより、個々の聖なる場所からなる町というイメージになっている。町自体に聖性が宿るとは考えていないようである。また他の巡礼記と比べると、聖なる場所への言及が少ない。またオリーブ山がエルサレムから切り離されていることも特徴的である。

ベツレヘムは、ヒエロニュムスが特にお気に入りの場所であり、多くの言葉が費やされている。パウラはベツレヘムで幻を見たようである。それは、マタイとルカによるイエス聖誕の合成であり、ベツレヘムを見下ろせるような場所からの記述であり、また聖書の記述における時間の流れを濃縮したものであった。ヒエロニュムスはベツレヘムが出てくる聖書箇所を数多く引いて、モザイクのように組み合わせている。ただし、そのチョイスは多くの場合、オリゲネスとエウセビオスからの影響を強く受けている。ベツレヘムに関する記述は、聖書的ヴィジョン、聖書引用、そしてパウラとヒエロニュムスの個人的な敬虔さに溢れている。

オリーブ山は、パウラが一度パレスチナ南部を巡礼した帰りの道行きで登場する。つまり、エルサレムの記述とは分離している。しかし、最初にエルサレムを巡礼したときにオリーブ山に行かなかったとは考えがたい。南からオリーブ山に近づくことで、エルサレムよりもテコアとの関連が強調されている。キリスト者はオリーブ山に対し、肯定的な見方と否定的な見方をしていた。なぜなら、新約聖書中のオリーブ山のシーンには、差し迫った磔刑へのダーク・ドラマと勝利の昇天とが共に描かれているからである。しかし、4世紀までには年毎のエルサレムでの礼拝にオリーブ山も組み込まれていた。ヒエロニュムスは、民19:1やエゼ11:23などに出てくるオリーブ山については論じているが、共感福音書中のイエスの黙示的な記述やゲッセマネの挿話などについては触れていない。オリーブ山に関する記述ではヒエロニュムスが一人称で語っている部分もあり、そこは実際の巡礼というよりは聖地のヴィジュアル・ツアーといった呈をなしている。

『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。

2019年12月5日木曜日

エチオピア語訳『エノク書』について Knibb, The Ethiopic Book of Enoch

  • Michael A. Knibb in consultation with Edward Ullendorff, The Ethiopic Book of Enoch: A New Edition in the Light of the Aramaic Dead Sea Fragments, II (Oxford: Clarendon Press, 1978), 1-47.

『エノク書』が近代ヨーロッパに本格的に紹介されたのは、1773年にJames Bruceがエチオピアから3写本(Bodl 4, Bodl 5, Paris 32)を持ち帰ってきたときのことであった。このうちBodl 4に基づいて、R. Laurenceが1821年に英訳を、1838年に最初にテクストを出版した。さらに多くの写本がヨーロッパにもたらされてから、1851年には5つの写本を校合してA. Dillmannが最初の校訂テクストを出版した。

1886/7年には、アクミームで『エノク書』1-32章のギリシア語訳を含む写本が発見された。R.H. Charlesは、このアクミームのギリシア語訳も利用しつつ、Dillmannが用いたエチオピア語訳写本に新たに9本の写本を加えた上で(とりわけBM 485を重視)、1893年に英訳を出版した。1912年には第二版が出ている。G. Beerは1900年にドイツ語訳、F. Martinは1906年にフランス語訳を出版した。

エチオピア語訳の校訂本で重要なのは、1902年のJ. Flemmingのものと、1906年のCharlesのものが特筆に価する。Flemmingは、エチオピア語訳が2つのグループに分かれると指摘した。グループⅠはより古いテクスト、グループⅡは他のテクストである。彼もまたCharlesと同じくBM 485が最も重要な写本であると考えた。

Charlesのグループ分けもFlemmingとまったく同じだが、グループ・アルファとベータと呼んでいる。彼によると、エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳であり、シュンケッロスの抜粋テクストはアクミーム写本よりもオリジナルに近いという。Charlesの校訂版が出た1906年から彼の英訳の第二版が出た1912年は、『エノク書』研究のターニング・ポイントであった。Charlesは彼以前の研究をよくまとめあげていたので、同時代の研究者たちは多くの場合彼の見解を受け入れた。一方で、異読として挙げているのは正字法に関わることばかりであり、示される情報も過剰であった。

Charles以降は校訂本も翻訳も出なかったが、どちらも新版が必要である。なぜなら、第一に、クムランでのアラム語断片の発見とギリシア語訳を含むチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスの発見があったからである。第二に、そうした発見がなくともCharlesの見解には修正が必要だからである。そこで本書は、アラム語とギリシア語の新発見を加味しつつ、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)に依拠した新しい校訂版と英訳を提供している。

アラム語断片。『エノク書』がヘブライ語とアラム語のどちらで書かれたのか、ずっと問われてきたが、1952年のクムランでのアラム語断片の発見によって、おそらくアラム語こそが原典の言語であったと考えられている。ただし、クムランで発見されていない「たとえの書」については、今もなお何が原語であるかは謎である。写本の出版を託されたのはJ.T. Milikで、彼は1958年に雑誌論文のかたちで一部出版したが、全体の出版は遅れ、1976年にようやく出版された。

クムランからは11の写本が出て、そのうち7本からは「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」に対応する部分が、4本からは「天文の書」に対応する部分が見つかった。「たとえの書」に当たるテクストを含む写本は見つかっていない。クムランでは、「天文の書」は独立して読まれ、他の文書はエノクの名の下にまとめられていたと考えられる。Milikは「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」がクムランではまとまって独立していたと考える。

アラム語断片を見ると、かなりの部分が残っているように見えるが、実際にはエチオピア語訳の1062節中の196節、つまり5分の1も残っていない。さらに多くの写本が劣悪な状態かつ断片的である。アラム語断片は一般的にギリシア語訳やエチオピア語訳と一致しているが、本質的でない小さな異読はある。「天文の書」に関しては、エチオピア語訳はアラム語よりも短く、本文の順序などの本質的な違いも見て取れる。

ギリシア語訳。アラム語からギリシア語に訳されたときの状況についてはほとんど分かっていない。ギリシア語訳には4種類ある。シュンケッロスの抜粋、アクミーム写本(Codex Panopolitanus)、ヴァチカン写本(Gr. 1809)、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスである。これらは、シュンケッロスのグループと、アクミーム、ヴァチカン、チェスター・ビーティのグループに分けられる。シュンケッロスのテクストは他と大きく異なっている。Charlesはそれゆえに、シュンケッロスのテクストがよりオリジナルに近いと考えた。シュンケッロスは『エノク書』を直接用いたのではなく、他の初期ビザンツ歴史家の抜粋に依拠した。これら4種類の他にも、ギリシア語訳、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳などがあるという。

エチオピア語訳。エチオピアにキリスト教が紹介されたのは4世紀のことで、そのとき以降に『エノク書』も含め、聖書文書がエチオピア語訳された。翻訳者たちがギリシア語訳を用いたことは明らかであるが、アラム語断片も間違いなく用いていた。著者は編集と翻訳に当たり、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)を中心に据えた。

Charlesはエチオピア語訳写本をEthⅠとEthⅡの2つのグループに分けた。エチオピア語への翻訳自体は4~6世紀の出来事だが、最も古い写本はほぼ1000年後の15世紀のものである。EthⅠはより古いテクスト群で、大衆的なテクストを代表するEthⅡよりもギリシア語訳と一致する。ただし、その価値を過大評価はできない。確かにEthⅠは多くの価値ある読みを保存しているが、欠落や付加、ミススペリングや不注意なども多く含んでいる。Charlesは真のエチオピア語訳はEthⅠグループの写本からのみ見つかると考えていた。しかしながら、著者が採用したRylはEthⅡグループの写本である。EthⅡに対するEthⅠの過大評価を是正する意図がある。

エチオピア語訳の底本。エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳だと一般に見なされており、SchmidtやUllendorffらからの抵抗以外には、ほとんど疑問視されていない。Ullendorffによると、『エノク書』はアラム語から直接エチオピア語訳に翻訳されたのだという。むろんギリシア語訳を参照はしたと考えられる。この問題を考えるに当たって、アラム語とギリシア語訳だけ一致する場合と、アラム語とエチオピア語訳だけ一致する場合は、それぞれ興味深い。とりわけ、アラム語とエチオピア語訳だけが一致するならば、翻訳がギリシア語経由でないことが明らかになる。ただし、翻訳者がどの程度アラム語テクストを使ったのかは不明である。

『エノク書』のエチオピア語訳の起源と歴史は、聖書のエチオピア語訳のそれと比較できる。

2019年11月24日日曜日

パウラの墓碑銘 Cain, Jerome's Epitaph on Paula

  • Andrew Cain, Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts; Oxford: Oxford University Press, 2013), 1-39.

本書は、長年のパートナーだったパウラの死を悼んでヒエロニュムスが書いたテクストの解説とコメンタリーである。パウラは347年5月5日にローマで生まれた。母親ブレシラはスキピオーとグラックス兄弟の子孫であり、父親ロガトゥスはアガメムノンを先祖に持つ高貴なギリシア系の家系に連なる者だった。パウラはユリウス・トクソティウスというあまり冴えない元老院議員と結婚し、ブレシラ、パウリナ、エウストキウム、ルフィナ、トクソティウスの5人の子供を産んだ。381年に夫と死別すると、パウラはその後の人生を修道に捧げ、寡婦として過ごした。

382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。

文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。

ヒエロニュムスは、自分の作品を追悼演説として書きつつ、伝記的要素もかなり入れたが、他の文学形式のセレクションも組み合わせている。たとえば、旅行記(iter/itinerarium)、聖書注解、論争的な補遺、神学的な論争書(altercatio)、修道院法規(regula)、叙事詩、追悼詩などである。ヒエロニュムスはこれらの要素をシームレスに混ぜ合わせて、散文、詩文、悲歌、聖書へと分類するスキルを示したのだった。

ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。

ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。

4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。

15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。

聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。

神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。

古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。

ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。

結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。

2019年11月15日金曜日

ヘクサプラ第5欄の目的 Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column"

  • Joachim Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column of the Hexapla," in Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25th July-3rd August 1994, ed. Alison Salvesen (Texte und Studien zum Antiken Judentum 58; Tubingen: Mohr Siebeck, 1998), 3-15.

本論文はヘクサプラの第5欄のテクストの起源と、オリゲネスがこれを編纂した目的を明らかにするものである。ヘクサプラの実際のテクストに関する信頼できる証言というものは存在しないが、近年ではオリゲネスの注解やその他の著作のキーパッセージをより正しく理解できるようになってきたために、1875年にFieldがヘクサプラ校訂版を出版した時代よりは有利である。

ヘクサプラについてのオリゲネス自身の証言として重要なのが、『マタイ福音書注解』15.14、『アフリカヌスへの手紙』2-4、『ホセア書注解』(『フィロカリア』52-54所収)である。『マタ注解』によると、オリゲネスは旧約聖書のアンティグラファ間の「不協和音」を「癒す」ことを目指したという。ここでの「アンティグラファ」は、基本的にギリシア語訳聖書の諸版のことを指しているが、オリゲネスは校訂記号を用いてギリシア語とヘブライ語の両テクストの違いにも言及しているので、アンティグラファも両者を指すことがあるといえる。

ただし、オリゲネスはあくまでもギリシア語テクストに重きを置いており、その目的も究極的には教会の伝統的な七十人訳に基づいた信頼できるギリシア語テクストを作成することだった。ヘブライ語テクストは、テクスト批判の最後にギリシア語テクストに関する議論を裏付けるために参照するわけである。その意味で、オリゲネスはキリスト教伝統に忠実であると同時に、文献学への厳格な要求を持った人物だった。

『マタ注解』で論じられているのはヘクサプラの第5欄作成の方法論についてなのか、それともテクストとして分離した七十人訳についてなのか、これまで議論されてきた。後者を採る見解の依拠する理由としては、第一に、エウセビオスが第5欄における校訂記号の使用に言及していないから、第二に、現存するヘクサプラの写本には校訂記号が書かれていないから、第三に、ヘクサプラに校訂記号が書かれていたというエピファニオスの証言は信憑性が低いから、第四に、R. DevreesseやS. Jellicoeがまた違った角度から第5欄における校訂記号の使用を否定しているから、そして第五に、ヘクサプラのテクストがオリゲネスの改訂を反映しているのかパンフィロスとエウセビオスのそれを反映しているのかはっきりしないから、である。それゆえに、研究者たちはオリジナルのヘクサプラの第5欄は校訂記号を含んでいなかったし、またオリゲネスが『マタ注解』で言及しているのは切り離された七十人訳の改訂版だと主張した(Kahle, Barthelemy, Devreesse, Neuschaeferなど)。

ところがP. Nautinは上の説に反対し、第5欄のことが論じられていると考えた。なぜなら第一に、シロ・ヘクサプラには校訂記号があるから。第二に、ヒエロニュムスが『歴代誌序文』で用いているeditio Septuagintaという語は、分離された七十人訳の「エディション」と考えるべきではなく、むしろ単純に七十人訳の「ヴァージョン」と考えるべきだから、である。こう考えると、現存する写本に校訂記号がないことは「沈黙からの議論」にすぎないといえるし、またエピファニオスの主張の信憑性も回復する。さらに、ヘクサプラの現存する断片がそもそもオリゲネスによる第5欄に関するものなのか、それともパンフィロスやエウセビオスによる後代の改訂が入ったものなのかが、オープンクエスチョンになる。

Nautin説を参照しながら、論文著者は、オリゲネスが言及しているのは分離されたものではなく第5欄のことであり、オリゲネスはヘブライ語が初級レベルであるがヘブライ語写本をも参照しており、また結局のところヘブライ語写本よりもギリシア語写本を重く見ている、と説明する。ではオリゲネスは第5欄にどのような目的をあてがったのだろうか。Nautinによれば、ヘクサプラそのものにギリシア語テクストに対する本文批評的な理由は見出せず、むしろそれはヘブライ語原典を再構成するための個人的な批判的ツールだったという。しかし、Kamesarはこの見解に反対する。校訂記号は、読者を想定していたことを示している。

他には、第5欄は「学問的」なものなのか「論争的」なものなのか、という議論がある。つまり、第5欄が歴史的・文献学的に正確なテクストを作ろうとする学問的関心による産物なのか、それともキリスト教的護教論の要請に動機付けられたものだったのか、という問いである。「学問的」である証拠としては、第一に、聖書諸写本間の不協和音を「癒す」努力をしており、第二に、オリゲネスは聖書に登場するさまざまな名前をヘブライ語の形式に合わせて正しており、第三に、七十人訳の語順をテクスト破損の結果だと考えており、そして第四に、アステリスコス記号のもとにある(=七十人訳にはないがrecentioresにはある)箇所にコメントをしていることなどから、明らかである。

一方で、『アフリカヌスへの手紙』によれば、オリゲネスはその学問的な関心にもかかわらず、護教論に突き進んだ敬虔なキリスト者であり、第5欄もユダヤ教に対する論争における有用な武器だった、という解釈もある。さらに、護教的な理由から、本来であればヘブライ語テクストを中心にしたいという本心を持っていたが、それを隠していたという解釈も導かれる(N. de Lange)。しかし、Kamesarは、オリゲネスの究極的な関心は七十人訳であることから、この解釈を否定する。オリゲネスの聖書解釈には、翻訳には何らかの神的導きがあると信じる「オイコノミア」の考えに基づいているので、『エレミヤ書説教』15.5にもあるように、ヘブライ語の読みもギリシア語の読みも解釈の対象となるのである。Kamesarによれば、オリゲネスは七十人訳の逸脱も含む全体を肯定的に捉える一方で、ヘブライ語テクストに基づいてそれを正そうともしており、この両方の見解が自己矛盾していないのである。それゆえに、オリゲネスの意図を「学問的」か「論争的」かと対立的に考えることはできない。

2019年11月10日日曜日

第七洞窟のギリシア語断片 Muro, "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7"

  • Ernest A. Muro, Jr., "The Greek Fragments of Enoch from Qumran Cave 7 (7Q4, 7Q8 & 7Q12 = 7QEn gr = Enoch 103:3-4, 7-8)," Revue de Qumran 18.2 (1997): 307-12.

1955年に発見された第七洞窟から24の巻物が発見された。すべてパピルスに書かれたギリシア語写本である。1972年にO'Callaghanは7Q4 1&2をテモテⅠ3:16-4:3、また7Q8をヤコブ1:23-24だと同定した。これに対し、1988年にNebeは、7Q4 1が『エノク書』103:3-4、7Q4 2が同98:11、そして7Q8が同103:7-8であると同定した。O'Callaghanを支持するThiedeはNebeの説に反対したが、PuechがNebeを擁護した。

これらの説はどれも決定的ではないが、7Q4, 7Q8, 7Q12を個別の写本として検証している点では共通している。これに対し論文著者は、3断片を同じ写本に由来するものとして統一的に検証することが必要と主張した。そうすることで、論文著者はNebeのエノク書説を支持しようとしている。

写本に書かれた方眼や繊維の方向、あるいはパピルスの端の曲がり方といった物的な証拠から、3断片は同じ写本に由来するだけでなく、もともとひとつながりであったことが分かる。文字の形や内容などのテクスト的な証拠からは、このテクストが『エノク書』からのものだということが分かる。

物的な証拠とテクスト的な証拠から、7Q4, 7Q8, 7Q12はひとまとまりであり、『エノク書』103章のギリシア語テクストであることが判明した。ゆえにNebeの同定は正しい。7QEn grのような新しい表記法が必要である。

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フィロンにおける自由学芸 Mendelson, "Encyclical Studies in Philo"

  • Alan Mendelson, Secular Education in Philo of Alexandria (Cincinnati: Hebrew Union College Press, 1982), xvii-xxv, 1-24.

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導入

ヨセフスが伝えているソロイのクレアルコスによるアリストテレスとユダヤ人との邂逅譚からも分かるように、ギリシア文化はユダヤ人にも浸透していた。しかしそれはパレスチナにおいてよりも、アレクサンドリアにおいて顕著であった。中でもフィロンはギリシア語訳聖書を用いて悪びれず、むしろヘブライ語テクストと同等の価値を認めた。さらにフィロンは、トーラーの問題を解決するためにギリシア哲学から本質的な点を借用した。すなわち、フィロンのギリシア哲学への依拠は単に便利さの問題ではなく信念の問題だったのである。フィロンやその読者にとって、ギリシア哲学は聖書を新しい意味で満たすものであった。これは非常に深いユダヤ教とヘレニズムのフュージョンといえる。

一方で、フィロンはユダヤ教徒としての意識も強く持っており、哲学はあくまで聖書の侍女であり、聖書こそがフィロンの思想を規定していた。それゆえに、フィロンはプラトンからの強い影響を受けていたにもかかわらず、ギリシア文化の理想としての同性愛には強く反対していた。なぜなら同性愛はレビ記などで否定されているからである。フィロンはギリシア文化とユダヤ教との間に線を引いていたのである。

こうした観点から、本書はフィロンがギリシアの世俗の教育、いわゆる自由学芸についてどのように適切に用い、また拒絶したのかを明らかにするものである。当時のユダヤ人がギリシア的教育に対して取った態度には、パレスチナで見られたように完全に拒否する者もいれば、フィロンの甥のティベリウス・ユリウス・アレクサンデルのように無批判に完全に受け入れた者もいた。ギリシア的教育に対するフィロンの態度を知るには、『予備教育』を検証する必要がある。

自由学芸の問題は研究に値する。というのも、2つの特異点、すなわち宗教的な点と哲学的な点が認められるからである。第一に、宗教的な特異点としては、伝統的な宗教と世俗の教育が出くわした際に起こる聖性と冒涜との緊張である。その例としては、ラビ・ユダヤ教とギリシア的知恵(ホフマー・ヤヴァニット)との邂逅がある。バビロニアでもパレスチナでも、ラビたちはギリシア的知恵を異端に近いものと見なしていた。霊的な価値を持たない世俗的な体系を聖書の聖なる教えとどのように折衷させるか、という問題はラビとフィロンに共通のものであった。

第二に、哲学的な特異点としては、キオスのアリストンが述べるように、自由学芸や科学はそれ自体を学ぶのではなく、哲学というより高次の知識の予備的な教育として学ぶ必要があるという考え方があった。自由学芸を意味する「エンキュクリオス・パイデイア」という用語自体はシケリアのディオドロスやハリカルナッソスのディオニュシオスより前には見られないが、同様の見解はプラトンやクセノフォンからセネカにまで見られる。哲学と自由学芸の関係は、ペーネロペーとその侍女の関係に対比されたが、フィロンはこれをサラとハガルの関係で説明した。ただし、フィロンはさらにそこから一歩進み、自由学芸にも固有の霊的価値があると理解している点で異なっている。フィロンの教育論に関する先行研究は、Colson, Marcus, Alexandreらのものしかない。


第1章:フィロンにおける自由学芸

「パイデイア」(教育)という言葉は、教育の過程を指す場合と、教育の結果を指す場合がある。フィロンも両方の意味でこの語を用いている。またパイデイアの欠如は、訓練されていない、規律がない、文明的でない、などといった状態であると見なされた。

「エンキュクリオス・パイデイア」は、フィロンにおいて、自由学芸および科学の教育のこと指している。最近までエンキュクリオス・パイデイアは「エンキュクリオス」という語から、「すべての人が享受可能な、毎日するような通常の教育」の意味だと捉えられてきた(H.I. Marrou)。しかしM. AlexantreやL.M. de Rijkらは、「エンキュクリオス」がもともと音楽用語であること、また音楽や文化一般が人間に教え込むべき調和というところからより広い教育的な意味を持つことを指摘している。フィロンにおいても、エンキュクリオス・パイデイアは普通の日常のトレーニングではなく、調和における教育を意味している。フィロンは同義語として、メセー・パイデイア、メサイ・エピステーマイ、メサイ・テクナイ、あるいはメサイ・テクナイといった表現を用いている。

自由学芸には七科があることが知られている。三科としては、文法学、修辞学、弁証学があり、四科としては、幾何学、算術、音楽、天文学がある。重要なことに、三科と四科の区別はしていないものの、フィロンはこれらすべての科目に言及している。そして、これら以外の科目には言及していないこともまた重要な点である。自由学芸に言及したテクストには、『予備教育』74-77、『ケルビム』105、『農耕』18、『夢』1.205、『出エジプト記問答』2.103、『予備教育』11, 15-18、『創世記問答』3.21、『モーセ』1.23の8つがある。これらのテクストによると、自由学芸一般の特徴として、国際的な由来を持つこと、また(知的な世界ではなく)感覚的な世界に属することが挙げられる。

文法学。『夢』によると、文法学は初等教育としての読み書きと、より高次の教育としての詩人についての知識や古代の歴史の学習に分かれるという。前者はグランマティスティケー、後者はグランマティケーと呼ばれる。「文学(Letters)」と呼ぶに相応しい後者の文脈では、文学は否定的な例を挙げることで避けるべき振る舞いを示すという役割がある。フィロンにとって肯定的な、模倣するべき徳の源泉は常に聖書であった。こうした「上向きの」学びは、最終的には哲学に行き着くものであった。

修辞学。修辞学を学ぶ者が涵養すべきは、思考(heuresin)、表現(phrasin)、整理(taxin)、取り扱い(oikonomian)、記憶(mnemen)、伝達(hypokrisin)である。修辞学は、言語的な能力が決定的になるような場面において重要になってくる。フィロン自身は修辞学を、アレクサンドリアのソフィストたちとの戦いにおいて自己を防衛するために必要不可欠な武器だと見なしていた。ただし、それだけではなく、修辞学の最終的なゴールは最後まで確実に正しく理解されるようなスピーチをすることでもである。そのために、フィロンはストア派のロゴス論、すなわち心の中にある思考からの動きを促進するロゴス・エンディアテトスと、弁論の中に映されたロゴスであるロゴス・プロフォリコスを取り入れている。ただし、知識の体系というよりもマスターするべき技術である修辞学は直接哲学へと繋がっているわけではない。修辞学自体はソフィストの持っている技術である。

弁証学。フィロンが自由学芸について触れている8つのテクストの中で、弁証学については『予備教育』18でしか言及していない。フィロンは弁証学と修辞学は双子の姉妹であると位置づける一方で、両者を区別してもいる。キティウムのゼノンによれば、修辞学が分かりやすい物語によって述べられたことを上手に説く科学であるのに対し、弁証学は問答によってある主題を正確に論じるものであるという。つまり、修辞学の強調点は形式的な技術ではなく語りの巧みさであるが、弁証学は構造を持つ原理である。弁証学は論理学とも比較できるが、哲学の一分野として抽象的な問題を扱う論理学と異なり、弁証学はより具体的な現実生活を扱う実用的なものである。

幾何学。これは七科のうち、8つのテクストのすべてで言及されている唯一の科目である。幾何学の学習には2つの利点がある。第一に、実用的な点としては、計算を必要とするような事柄において完全な正確性をもたらすことができる。第二に、倫理的な点としては、幾何学が平等と均整を学ぶことを愛する魂を涵養することができる。とりわけ平等は、原理そのものの主要な特徴であると同時に、その学びから得られる望ましい教訓でもある。ただし、幾何学も文法学同様に、突き詰めるとある点から哲学に変わってしまう。

算術。8つのテクストのうち4つで言及されている。算術はものごとにおける完全な正確さを得るためのものである。また数秘術的な伝承を学ぶためのものでもある。「数秘術(arithmetic)」と「数学(arithmology)」の区別はフィロン自身はまったくしておらず、同じものと考えている。フィロンは小数、集合、累乗の定理、比例などを知っていた。フィロンの数に関する説明の多くは、あまり専門的でない算術と伝承の組み合わせといっていい。そしてそれをある種の倫理的価値観でまとめている。

音楽。8つのテクストのうち6つで言及されている。最も詳しい説明をしている『予備教育』76からは、フィロンが音楽の専門用語に通じており、また音楽の学びの範囲が理論に向けられていることが分かる。一方で、理論でない実用的な記述もある。快楽をもたらす芸術である音楽を忌避すべきという見解も持っていた。

天文学。古代において、上のさまざまな科目の掉尾を飾るのが天文学である。科学の女王ともいえるが、フィロンは『予備教育』11でしか触れていない。天文学が科学としての統一性を欠いているからと説明するとする研究者と、天文学が現世的な科学を超越しているからと説明する研究者がいるが、本書の著者はこれらの説明をいずれも退ける。

まず統一性を欠くからと説明するColsonは、天文学は幾何学の一部門と見なすべきというクインティリアヌスの主張を紹介するが、フィロンとクインティリアヌスは目標が異なる。Drummondはフィロンが天文学を過小評価したと主張するが、これはフィロンの記述を表層的にしか読んでいないための結論である。フィロンは現在で言うところの天文学と占星術を曖昧ながらも区別しているので、その天文学に対する態度は複雑である。星の崇拝のようなやり方には攻撃を加えるが、純粋に研究された天文学そのものを過小評価することはない。

現世的な科学を超越しているという説明はBréhierに見られる。彼によれば、天文学は他の諸学芸と共に置かれるべきではなく、知恵への最初の一歩であるという。それどころか、星の神聖視するような記述すらある(「星は神聖な魂である」『巨人』8)。Wolfsonはこの表現はギリシアの大衆的な宗教からの単純な言葉の借用なので、実際に神聖視していたわけではないと説明する。Goodenoughは、フィロンが否定していたのは低級な神々を崇拝することであって、その存在そのものではないと主張することで、フィロンの一身強敵見解と『巨人』での発言を両立させた。しかし、フィロンにとって星を含む天はそもそも現世的な感覚世界の問題である(『予備教育』50)。

天文学astronomiaと占星術astrologiaの用語について、Marrouは、両方ともわれわれが科学と呼ぶものと迷信と呼ぶもの両方を指し得ると説明する。しかし、古代人が天文学において彼らが科学的と考える部分と迷信的と考える部分を区別していたかは分からない。フィロンはastrologiaという語はまったく用いていないがastronomiaは頻繁に使っている。似た用語として、meteorologia、meteorologikos、chakdaikosなどは肯定的にも否定的にも用いられていることから、その使用は体系的でない。フィロンは今では占星術の一種と呼ぶべき兆しやお告げも重要視している。星座の理解も天文学を学ぶ者が重視すべきことと考えている。ただし、星座そのものを崇拝することは禁止する。天文学のリミットを知らない者は星の決定論や唯物論や汎神論のような異端的な考え方に至ってしまうので、注意が必要である。

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