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2019年2月23日土曜日

オリゲネス『諸原理について』の翻訳者としてのヒエロニュムス Crouzel, "Jérôme traducteur"

  • Henri Crouzel, "Jérôme traducteur du Peri Archôn d'Origène," in Jérôme entre l'Occident et l'Orient: XVIe centenaire du départ de saint Jérôme de Rome et de son installation à Bethléem. Actes du Colloque de Chantilly (septembre 1986), ed. Yves-Marie Duval (Paris: Études Augustiniennes,1988), 153-61.

オリゲネスの『諸原理について』の校訂者はルフィヌス訳にばかり注目してきた。ヒエロニュムスの翻訳については、ごく小さな批判の試みもされず、その字義性も疑問視されなかった。しかし、ヒエロニュムス訳も批判されるべきである。これまでは、Karl Müllerによる『アウィトゥス宛書簡124』研究や、Gustave Bardyによる補足的な研究がなされている。ヒエロニュムスは信仰に関してルフィヌスよりも立派ではない。

翻訳作成の顛末は以下のとおりである。クレモーナのエウセビウスがイタリアからの帰りに、ルフィヌスから『諸原理について』の翻訳を盗み、ヒエロニュムスの友人たちに見せた。それを読んだパンマキウスとオケアヌスは憤慨し、ヒエロニュムスにこのけしからぬ書物の忠実な訳を作成するように依頼した。その目的は、異端者の告発と不正確な翻訳者の取調べであった。しかし、パンマキウスはヒエロニュムス訳を読んでショックを受けたために公にしなかった。それから10年後、その翻訳の存在を知ったアウィトゥスがヒエロニュムスに問い合わせると、彼は返信の中で信仰のために危険な箇所をリストアップしたのだった。

オリゲネスは2つ3つのことを議論して、多くの場合読者に委ねるが、驚くべきは4回も出てくる議論である。すなわち、キリスト教信仰に従った肉体的な救済と、プラトン哲学に従った非肉体的な救済に関する議論である。ヒエロニュムスはオリゲネスの異端的な部分を強調したかったので、『書簡124』にはプラトンの方だけが出てくる。すると両方の議論を保存しているルフィヌスは、現代の歴史家からは、オリゲネスを正統信仰に引き戻そうとする贋作者のように見える。オリゲネスの時代では哲学との対話は、学術界へのキリスト教拡張のために、またキリスト教徒の識者の信仰を固めるために重要だった。しかし、ヒエロニュムスの時代では教会の勝利は確定的だったので、わざわざ哲学と対話する必要がなかったのである。

『書簡124』の中にある『諸原理について』からの明確な引用と要約を区別しなければならない。ヒエロニュムス固有の解釈は後者の中にある。『書簡124』とユスティニアヌス帝の『メナス宛書簡』との偶然の一致は、テクストの正当性を必ずしも証明しない。なぜなら『メナス宛書簡』に関わるパレスチナの反オリゲネス主義者たちはそもそも『書簡124』の影響下にあったからである。

ヒエロニュムスはオリゲネスが哲学と対話した意図を理解しなかった。ヒエロニュムスは、魂の転生(metempsychose)と肉体の転生(metensomatose)に関するオリゲネスの議論がしばしば変化することに憤慨した。オリゲネスはあえて賛成と反対の両方の意見を併記したが、ヒエロニュムスは歴史的なセンスを持ち合わせなかったため、オリゲネスがそうしたのは当時のキリスト者たちが哲学的な魂の転生の議論に不安を覚えていたからだということを理解しなかった。

ただし、教義の発展という歴史的思考やセンスは、比較的最近のリアリティなので、それを持ち合わせなかったからといってヒエロニュムスを非難するには当たらない。とはいえ、彼がそうした意識に欠けていたことは確かである。ルフィヌス訳では、「子」と「聖霊」について、natusとinnatusという語が用いられており、ヒエロニュムス訳では、factusとinfectusという語が用いられている。natusとfactusは、ギリシア語のgennetos(生まれた)とgenetos(創造された)に対応していると考えられる。つまりギリシア語上では両者の違いはnひとつ分というわけだが、オリゲネスの時代には違いはないものとされていた。しかし、ヒエロニュムスの時代にはアレイオス主義の危機から区別が戻ったのである。つまり、ヒエロニュムスは自分の時代の神学用語に基づいてオリゲネスを批判しているのだった。子の父に対する従属説に対するヒエロニュムスの非難にも、彼の歴史的意識の欠如が見られる。実際には、これはオリゲネスによる神人同型説への攻撃だった。

ヒエロニュムスの翻訳の忠実さを評価することはできない。なぜなら『フィロカリア』にあるギリシア語原文に対応する箇所があまりに少ないからである。ユスティニアヌス帝の書簡に含まれる断片も比較には役立たない。そうした中で、ヒエロニュムスの3つの断片が自由意思に関する章と対応している。それによると、ヒエロニュムスはルフィヌスより忠実ということはない。ヒエロニュムスはオリゲネスの異端的な特徴を引き出すために表現を変えている。聖書に関する部分でもルフィヌスの方が忠実である。とはいえ、明確な結論を導くには材料が少なすぎる。

『書簡124』において、ヒエロニュムスはオリゲネスの思想を拡張している。三位一体に関する議論で、ルフィヌスによれば、オリゲネスは質的ヒエラルキーに基づいて聖霊がより大きいと主張していたというが、ヒエロニュムスやユスティニアヌス帝によれば、オリゲネスは量的ヒエラルキーに基づいて父の方がより大きいと主張したという。またルフィヌスによれば、オリゲネスはこの世界の前に別の世界があったと述べたというが、ヒエロニュムス訳では世界の唯一性について語っている箇所があるので、これはヒエロニュムスがオリゲネスの思想を問題視したからだと考えられる。

ヒエロニュムスは、キリストが悪魔のために天で再架刑されたという考えをオリゲネスに帰しているが、オリゲネスによれば、キリストの犠牲による救済の普遍的性格はその犠牲の単一性にあるという。つまり、ヒエロニュムスの解釈はあり得ないわけである。

ヒエロニュムスは、オリゲネスが神の本質について関与可能なものと主張していることに憤慨しているが、『諸原理のついて』でも他の著作でも、オリゲネスは父の神性について子や被造物の関与を区別できると述べている。理性のある被造物が神に関与できるのは、ロゴスの瞑想を通じてであるという。またヒエロニュムスによれば、オリゲネスは別のところで子と聖霊が父と同等であると認めなかったというが、その箇所が現存しないので、これは確認できない。しかしながら、オリゲネスのテクストは三位の一体性を前提としている。いずれにせよ、ヒエロニュムスはオリゲネスの原理の全体を考慮に入れていないこと、またヒエロニュムスの思弁的知性が犠牲者(オリゲネス)と同じ高さにないことが問題である。

ヒエロニュムスは『諸原理について』の文学ジャンルを考慮していない。使徒たちは信者たちに、彼らが必要と判断したことを教えたが、必ずしもいつもその主張の理由を説明しなかった。そういうわけで、オリゲネスは聖書と理性を用いつつ、神学的思索の領域を広げた。『書簡49』において、ヒエロニュムスは弁論をgymnastikosとdogmatikosに区別している。そして『書簡124』では、オリゲネスがgymnastikosで書いたことすべてをdogmatikosだと解釈している。ヒエロニュムスはオリゲネス主義者たちの異端的な教説について知らなかったように、オリゲネスが用いた語彙についても知らなかった。彼は歴史感覚に不足していり、神学にも無理解だったので、神学的な前進を追求する気もなかった。

ヒエロニュムスはオリゲネスの主張を硬化させ、ニュアンスを取り除いてしまっている。オリゲネスのギリシア語著作には、ある程度の制限、疑い、相対化といったものが見られる(そしてそれらはルフィヌス訳にも見られる)のに対し、ヒエロニュムスはそれらを欺瞞的であると見なした。オリゲネスは別の架空の意見を述べるときもあれば、自分ではまったく賛同していないことに言及するときもある。ヒエロニュムスはそうした特徴を尊重しようとはしなかった。オリゲネスは父と子の平等と、後者の前者への従属を同時に説いている。しかしヒエロニュムスは、「オリゲネスによれば、子は善そのものではないが、善性の反射である」と、従属説のみを紹介する。また人間の悪魔への同化に関するオリゲネスの見解について、ルフィヌスがそこに倫理的同化を見るのに対し、ヒエロニュムスはそれを文字通り受け取り、物理的な同化を期待している。

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