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2019年2月12日火曜日

エウセビオス『年代記』のヒエロニュムスによるラテン語訳について Burgess, "Jerome Explained"

  • Richard W. Burgess, "Jerome Explained: An Introduction to his Chronicle and a Guide to Its Use," Ancient History Bulletin 16.1-2 (2002): 1-32.

ヒエロニュムスがエウセビオス『年代記』を手に入れたのはアンティオキアのことで、コンスタンティノポリスに移った380年から翻訳および増補を始めた。ギリシア語原典はほぼ消失したのに対し、ヒエロニュムスのラテン語訳は10以上の写本で残っている。しかしながら、その写本伝承の複雑さなどにより、本文書が注目を集めてきたとはいい難い。本論文はこの難解な文書の取り扱い指南になっている。

本文書の問題としてよく取り上げられるのは、カトゥッルスの死んだ年に関する記述の各版での違い、サルスティウスの死んだ年の時系列の違い、そして教会史に関する引用の各版での違いなどである。またヒエロニュムスの仕事が拙速であるという印象から、この翻訳には何らかのエクスキューズがついてしまうのだった。しかし、実際にはヒエロニュムスの翻訳は極めて忠実なものであった。

エウセビオスの『年代記』は311年から326年にかけて作成されたもので、クロノグラフィア(国ごとの歴史と治世リストのパッチワーク)とカノネス(クロノグラフィアにある素材を合成し作表したもの)から成っている。ひとつの見開きページでは最大で9王国がそれぞれの時系列を示しているが、やがてすべての欄がひとつになっていき、最終的にローマ帝国の時系列にまとめるという構造になっている。エウセビオスが『年代記』を作成した理由は、当時流行っていた「創造から6000年で世は終わる」という終末論に反対するためだった。

エウセビオスのギリシア語原典は現存しない。カノネス部分には、ヒエロニュムスのラテン語訳、アルメニア語訳の改訂版、シリア語の縮約版、エウセビオスを情報源とした後代のギリシア語抜粋が残っている。クロノグラフィア部分には、連続的なギリシア語抜粋と完全なアルメニア語訳が残っている。

『年代記』の校訂版は、Alfred Schoene版(1866)、John K. Fotheringham版(1923)、Rudolf Helm版(GCS 24, 34, 47; 1st ed. 1913; 2nd ed. 1956; 3rd ed. 1984)の3種類ある。Schoene版は専門家のみに有用、Fotheringham版は本文はしばしばHelm版より優れており、完全なアパラトゥスを備えている。Helm版は第一版は手書きなので、第二版と第三版のみが引用するに値する。

さまざまな地域の歴史を同じタイムラインに並べるために、エウセビオスは独自の時間表記システムを開発しなければならなかった。標準的なオリンピア紀は紀元前776年までしか遡れなかった。ヘレニズム期には伝統的に、現代のBCシステムのように、自分の時代から逆に数えていく方法が主流だった。あるいはキリスト教作家は世界の創造から数えていくannus mundi方式を採った。しかし、エウセビオスはアブラハムをプロト・キリスト者と見なし、そこから数えていく現代のADシステムのような方法を用いた。これは「アブラハム年(ann. Abr.)システム」とでも呼べよう。

『年代記』に出てくる各王朝は以下のとおり:アッシリア人、ヘブライ人(アブラハムが生まれた前2016年に始まる)、シキオニア人、エジプト人、アルゴー人、アテナイ人、ミケーネ人、ラテン人(前1178年から前752年のロムルスまで)、ラケダイモニア人、コリント人、メディア人、マケドニア人、リディア人、ローマ人(王政、ロムルスからカエサルの前まで)、ペルシア人、アレクサンドリア人、アジア人、シリア人、ローマ人(帝政、前48年のカエサルから始まる)。これらの国々が途中まではそれぞれ自分の欄を持ち、タイムラインが垂直に続いているのだが、最終的に帝政ローマの欄が横に伸びて他の欄をすべて呑み込んでしまう。

それぞれの時系列を定めるために、エウセビオスは7つの時間軸を設定している。第一に、アブラハムの誕生(前2016年)。第二に、ケクロプス王の即位(モーセの第35年)、第三に、トロイアの陥落(前1182年)、第四に、ソロモンの神殿の建設の始まり(前1133年)、第五に、最初のオリンピア紀(前776年)、第六に、ダレイオス王治世2年目のエルサレム神殿再建の始まり(前521年)、そして第七に、キリストの宣教の始まり(後28年、ルカ3:1参照)である。キリストの磔刑でなく宣教の始まりを軸としている点が興味深い。

ところで、エウセビオスが用いていたカイサリアでの暦は、ローマ帝国の東方諸国と同様にマケドニア暦だった。つまり、1年の始まりは10月3日である。これに対し、オリンピア紀は7月か8月からの4年周期であり、王たちの即位紀元は即位の日である。しかも、太陽暦を使う国もあれば太陰暦もあり、さらに太陽太陰暦もある。前776年以降エウセビオスはオリンピア紀を主要な時間軸としており、また各国の即位紀元も用いているが、いずれもマケドニア暦に無理やり合わせて10月3日から始まるようにしたものである。ちなみにヒエロニュムスが後を継いだ部分については、執政官に基づく年ですべて表されている。場所によっては、エウセビオスが王たちの即位紀元の最初の年に注目するのに対し、ヒエロニュムスは最後の年、すなわち王の死の年に注目している。後代の歴史家たちはヒエロニュムスの方法に従った。

カノネス部分でエウセビオスの筆による部分を特定するためには、第一に、ヒエロニュムスのラテン語訳を、エウセビオスの原典に基づいていると考えられる残存している証言と比較する。すなわち、アルメニア語訳や、エウセビオスに依拠しているらしい偽ディオニュシオスなどとの比較である。第二に、他のギリシア語証言との比較である。たとえば、『クロニコン・パスカーレ』、シュンケッロスの『クロノグラフィア』、『アノニムス・マトリテンシス』などである。

翻訳者の序文によると、ヒエロニュムスは翻訳者としてのみならず著者としても働いたという。彼はギリシア語を忠実に翻訳したが、特にローマ史に関して必要な部分を付け加えた。それゆえに、アブラハムからトロイア陥落までは単純にギリシア語を翻訳したものだが、そこからコンスタンティヌス帝までは、エウセビオスの記述にヒエロニュムスが多くを付加したという。さらに、エウセビオス以降の歴史について、326年から378年までは完全にヒエロニュムスが新たに書き足した。つまりヒエロニュムスがしたことは、第一に、エウセビオスにはない情報の付加、第二に、エウセビオスの記述の修正、第三に、ラテン語ソースとエウセビオス記述との取替え、エウセビオスの時系列の入替、などである。

ヒエロニュムスのソースは4つか5つあった:第一に、『オリゴ・ゲンティス・ロマナエ』、第二に、リウィウスの縮約版、第三に、スエトニウス『著名者列伝』、第四に、現存しない帝国史である『皇帝史』、そして第五に、完全な執政官リストである『ディスクリプティオ・コンスルム』である。これらに加えて、キュプリアヌス、テルトゥリアヌス、教皇や司教のリスト、反アレイオス主義の文書、手紙、報告、論文、物語、キリスト教版の『著名者列伝』、そして自身の知識などもソースとして活用している。

これらのソースを十全に活用するために、おそらくヒエロニュムスは付加的な情報を選定し、作文し、それらを個々にパピルスや蝋のタブレットに書いて整理した上で、必要なタイミングで口述筆記したと考えられる。ただし、エウセビオスのカノネスがアブラハムの年やオリンピア紀に基づいているのに対し、リウィウスの縮約版やスエトニウス『著名者列伝』はローマ建国紀元(Ab urbe condita)や執政官の年に基づいている。また『皇帝史』だけが拠り所となるアウグストゥスの時代(前33年)以降、ヒエロニュムスは文脈でしか時代を特定できなくなる。こうしたヒエロニュムスの歴史に関する記述は他のソースとの比較で正確性を確認できるが、文学に関する記述はヒエロニュムスの記述しか残っていない場合も多く、確認が困難である。とはいえ、その多くはかなり正確で、誤差は最大でも2年だという。こうしたことから、何らかの誤りがあるときに自動的にヒエロニュムスにその責を帰することはできない。

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