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2014年5月2日金曜日

フィロンの神学と創造の理論 Radice, "Philo's Theology and Theory of Creation"

  • Roberto Radice, "Philo's Theology and Theory of Creation," in The Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), pp. 124-45.
The Cambridge Companion to Philo (Cambridge Companions to Philosophy)The Cambridge Companion to Philo (Cambridge Companions to Philosophy)
Adam Kamesar

Cambridge University Press 2009-04-20
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古代の哲学においては、神と世界の本質をめぐる議論がしばしば取り上げられてきた。世界の創造について哲学的に考察することから神を論じたのがアリストテレスであるとすれば、逆に神を出発点として世界を論じたのがプラトンであり、そしてそれらの中間の方法を取ったのがストア派であるといえる。しかしフィロンはといえば、これらのどれでもなかった。すなわち、彼の議論は突き詰めていえば哲学的ではなく、むしろいつも必ず聖書から出発する寓意的(allegorical)・釈義的(exegetical)なものであった。それゆえに、彼にとってはそもそも神の存在も、神による世界の創造も自明のことだったのである。むしろ彼の目的は、世界がいかに律法と調和しており、また律法がいかに世界と調和しているかを説明することであった。そのために、フィロンは一方ではさまざまな聖書の一節(different biblical passages)に依拠し、他方ではさまざまな哲学的な影響(philosophical influences)から議論をかたちづくった。いうなれば、フィロンの根本的なアイデアは、いつもこの二者の間をさまよっている(vacillation)のである。

フィロンの神学は大きく5つに特徴付けることができる。第一は、神の可知性(knowability)である。不可知論者のように、もし神を知ることは不可能だと考えるなら、そもそも神について考えたり、神に関する創造をめぐらせることすら不可能であるはずである。しかしフィロンは、哲学的思考(abstract philosophical thought)および啓示(revelation)によって、神の人間に対する応答を知ることができると考えた。

第二は、神の人格的側面と非人格的側面(personal and impersonal character)である。フィロンは、神の人格的側面へとたどり着くのが信仰であり、非人格的側面へとたどり着くのが哲学的な思考であると考えた。彼はあるときは神の人格的側面と人間とを対比的に語ることがあるが、また別のときには神を擬人的に語るのは神を本当に理解していないからだと批判することもある。

第三は、神の〔この世からの〕超越性(transcendence)と〔この世への〕内在性(immanence)である。この違いは、フィロンが聖書的なモデルに依拠しているのか、あるいは哲学的なモデルに依拠しているかによって出てくるものである。まず神の超越性を語るときは、フィロンは聖書に依拠している。聖書の中では神の名前が知られていないことを根拠に、彼は神の絶対的な他者性を説く。一方で、フィロンはきわめて物質的かつ具体的な用語を用いつつ、神がこの世界に内在するという理解も示している。これは明らかにストア派の哲学から触発された考え方である。

第四は、神の唯一性(oneness)と首位性(primacy)である。はたして神は唯一なのか(唯一神教)、それともさまざまな位格の頂点にあるものなのか(単一神教)、という問いはしばしば立てられてきたが、フィロンはこれに一貫した答え方をしていない。あるときには、信仰の教義や伝統から神が唯一であると述べているが、またあるときにはプラトンやアリストテレス的な考え方から、星もまた神々であるとも述べている。フィロンは、星の他にも、ロゴスや知恵もまた神の位格のひとつであると考えている。

第五は、神の無限性(infinitude)と有限性(finitude)である。フィロンは、神の本質の無限性についてはなんら疑いを持っていないが、神の力の無限性については複雑な見解を持っている。もし神が無限の力を持っているのなら、なぜ悪が存在するのかという神議論が引き起こされるからである。この点について、フィロンの神の無限性の理解は、ギリシア思想における無限概念を変えたと言われている。フィロンによる無限とは、非空間的(not spatial)・非論理的(nor logical)であって、むしろ力(power, force)や行為(action)と関係している。すなわち、ストア派などに見られる「何でもできる(able to do everything)」という通常の無限理解に加えて、フィロンは「〔創造などの〕行為をやめようとしない(never ceasing to act)」という否定的な無限理解を提示してみせたのである。これはプロティノスらの新プラトン主義による神の無限性理解に大きく影響している。ちなみに無限の力を持つ神は、善と悪とを両方行うことができるが、フィロンによれば、完全な善である神は悪を行うことがないとしている。

では彼の創造論はどのようなものかというと、創世記の創造論をプラトン的に解釈したものといえる。彼の創造論のポイントは、時間の中での創造の否定(negation of creation in time)である。すなわち、最初の創造行為は、時間の中にある物質的世界(material cosmos)ではなく、時間から離れた精神的世界(noetic cosmos)での出来事だというのである。これは、この世界を超えたところにあるイデアの世界を想定したプラトンの思想に由来している。しかし、両者には大きな違いがある。プラトンによると、デミウルゴスはイデアの世界を手本(exemplar)にしてこの世界を創ったが、その際イデアはデミウルゴスに起源を持っているわけではない。一方で、フィロンによると、神はまずイデアのような、知性によってのみ理解可能な世界(intelligible world)を創り、そのあとで神自身がさらにそれを物質化(material realization)していったのだという。つまり、フィロンはこの世界の創造のみならず、イデアの創造すらも神に帰しているのであり、いうなれば、神による二重の創造という原理(the doctrine of the double creation)を作り出したのである。これはフィロンのトレードマークといわれる。

フィロンは創世記の記述からこの創造論を構築している。彼によると、創世記において、第一日目(first day)ではなく一の日(day one)と書かれているのは、この日に神がイデア世界を創造したからだという。しかも創世記の記述は時系列に従って直線的に書かれているのではなく、順番が要約されて、論理的・哲学的に再構成されているのである。それゆえに、創造は、(1)イデアの創造、(2)一般的な物質の創造、(3)と区的な物質の創造の順で行われたとフィロンは考えたのだった。

神と物質(matter)との関係を考える上で最も重要なのが、(dynameis)である。これはもともとアリストテレスからストア派にかけての用語であり、彼らは神自身と神意とを共に物質的な力だと考えていた。しかしフィロンは神の本質(the essence of God)と神の力(the power of God)とを区別した。こうした考え方は、前2世紀のアレクサンドリアのユダヤ人思想家であったアリストブロスの著作にも見ることができる。彼は聖書中の擬人的な表現(anthropomorphism)を神の力と見なし、それらと神の本質とを区別したのである。こうして、力に関する哲学的な原理は、釈義的な原理と相まって、神の名前の複数性にもかかわらずその唯一性を担保し、また神が世界の至るところで行為しているにもかかわらずその超越性を担保したのである。

そうした力のひとつであるロゴス(logos)は、超越的な神と感覚世界との架け橋のようなものであり、物質に触れることのできない神が創造において用いる道具としての役割を持っている。創世記において神が言葉=ロゴスを語るとさまざまなものが創造されたことから、ロゴスは聖書と深くかかわっているが(the creative word in the Bible)、一方で、ロゴスとはストア派による創造論の中で主要な理性的原理を示す用語でもある(the creative logos of the Stoics)。フィロンはこれにプラトン的なデミウルゴスによる創造論を加えることで、彼独自の三種類のロゴス理解が生じることになった。すなわち、(1)神におけるロゴス、(2)神の道具としてのロゴス、(3)世界におけるロゴスである。

力について哲学的な観点から語ったものがロゴスだとすれば、聖書的な観点から語ったものは知恵(sophia)である。フィロンにとってロゴスと知恵とはほとんど同じものといっていい。両者は、世界の創造における役割や、倫理上の徳の源泉であることなど、さまざまな共通点を持っている。フィロンによれば、ロゴスと知恵との相似は、聖書が哲学的な知と関係していることを証明するものであるといえる。

天使(angels)は、ロゴスに比べて自立性の少ないような力の顕現であるが、ロゴスと同一視されることもある。一方でフィロンは、天使を異教のダイモン、肉体のない魂、英雄たちなどと同じものと見なす場合もある。彼らは神の使いであり、直接コンタクトすることのできない神に代わって、人間に接触するのだった。

以上の力以外の主要な5つの力は、その機能によって名前がつけられている:創造的な力(creative power)、王の力(royal power)、慈悲の力(gracious power)、法的な力(legislative power)、そして罰の力(punitive power)である。といっても、これらに決定的な違いがあるわけではなく、一枚の布のようなものである。

プネウマ(pneuma)について、フィロンはロゴスのときと同様に、ストア派の哲学的な説明と創世記の物語的な説明とを両方用いて述べている。プネウマはストア派ではロゴスから流出したものであり、すべての物事の源である。プネウマは無生物の世界では結合力として、生物の世界では生の原理として、そして人間の中では魂と精神の原理として働いている。

フィロンのイデア(the Ideas)理解も注目に値する。プラトンのイデア理解とフィロンのそれとの違いは、すでに見たように、プラトンはイデアを永続的で存在論的に自律したものであると考えるのに対し、フィロンはイデアもまた設計家としての神によって創造されたものと考えるところである。

Radiceによる結論:
フィロンはただ自由に哲学的な議論を追及しているのではなく、常に聖書のテクストを考慮に入れながら、それと哲学とがなるべく調和するように、いわば釈義的抑制(exegetical constraint)のもとで議論している。神が超越的で常に創造的なのに、なぜその創造物である世界は不完全で有限なのかというと、それは世界に神の仕事を損なうような否定的な質量原理が存在するからである。また、このことが神の完全性を損なうことにならないのかというと、神は直接この世界に接触するのではなく、さまざまな力を通じて触れるので、神の完全性は損なわれない。

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