2014年5月6日火曜日

フィロンの倫理観 Levy, "Philo's Ethics"

  • Carlos Levy, "Philo's Ethics," in Cambridge Companion to Philo, ed. Adam Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), pp. 146-71.
The Cambridge Companion to Philo (Cambridge Companions to Philosophy)The Cambridge Companion to Philo (Cambridge Companions to Philosophy)
Adam Kamesar

Cambridge University Press 2009-04-20
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フィロン当時の哲学は、論理学、物理学、そして倫理学の三項目に分かれていたが、フィロン自身の関心は哲学そのものではなく、あくまで聖書解釈であった。著者はこうした観点から、フィロンの倫理観を、1)倫理の哲学的原理、2)徳、3)感情、4)倫理的発展、5)政治観という小区分から説明している。

フィロンの倫理観を支える哲学的原理としてまず挙げられるのは、ストア派の倫理観の基礎となっているオイケイオーシス(親近性)の否定である。ストア派によれば、あらゆる生きとし生けるものは、生まれると自分の身近なものを愛そうとする。この身近なものの範囲を、ある小さな集まりから都市、国家へと拡大していき、最終的にすべてのものを愛するコスモポリスを目指すべきだというのである。すなわち、オイケイオーシスは社会というものの起源といえる。しかし、倫理観に関して、人間と他の生物とが根本的に同じ本能的衝動を共有しているというこのストア派的な考え方は、プラトニストかつユダヤ人たるフィロンには受け入れがたいことであった。フィロンは創世記を基礎として、人間は動物よりも優れたものとして創造されたと考えていた。そして、仮に人間以外の自然物が何らかの規範的な価値を持つとするなら、それはそこに神意が反映しているときのみとも考えていた。

ただし、フィロンがオイケイオーシスという言葉を肯定的に使うこともあり、それはほとんどホモイオーシス(類似性)、言い換えれば、人間が神に似ることについての文脈の中でである。これはプラトンの『テアイテトス』から取られた言葉であるが、フィロンはこれによって、人間が世界を支配すること、人間が知性と知識を得ること、そして人間がロゴスに参与することの正当性を確信していたのである。さらには、人間同士の暴力や殺戮は、人間の神との類似を考えたとき、神に対する大いなる侵犯となるがゆえに、決して許されるものではなくなる。一方で、神を真に愛するためには、人間が相互に愛し合わなければならないということになる。ストア派は、すべての生物が相互にオイケイオーシスを持っていることから倫理観をかたちづくったが、フィロンは、対象を人間と神だけに絞り、前者が後者に対するホモイオーシスを持っていることから倫理観をかたちづくったのである。しかし、人間が神に対して持っているホモイオーシスにも、創造の過程ですでに持っていた類似性と、理性を追求する人間が意識的に獲得しようとする類似性との二段階がある。そしてこの第二のホモイオーシスを達成した人のことこそを、徳のある人というのである。

ではフィロンはどのようにを理解しているかというと、1)特にストア派などの哲学の伝統的解釈における徳、2)聖書における徳、そして、3)聖書の登場人物が体現している徳、という三種の混合といえる。

1)基本的に、フィロンの徳論は当時の哲学的解釈からほとんど外れていない。彼は、プラトン・ストア派的徳論である、枢要徳(フロネーシス:分別、ソーフロシュネー:節制、アンドレイア:勇気、ディカイオシュネー:正義)を踏襲しつつ、ソーフロシュネーの変形であるエンクラテイア(自制心)を重視した。といっても、フィロンは既成の哲学的カテゴリーに満足していたわけではなく、あくまで彼の関心事はそれをいかに用いれば聖書解釈が可能になるかということだった。

2)フィロンの聖書における徳論としては、カルデアの占星術を信奉していたアブラハムが、改悛(メタノイア)して移住したことで、気高さ(エウゲネイア)のモデルと解釈されるようになったことが挙げられる。ここでのメタノイアは、ストア派的な、不幸にして扇情的な感情という意味合いではなく、むしろ肯定的なユダヤ教のテシュバーの概念を受け継いでいる。すなわち、ユダヤ教に共感する異教徒や、異教に走ってしまったユダヤ人たちの改悛であり、共同体はこれを喜んで迎え入れるのである。完全なる神に対し、不完全な存在である人間は過ちを犯すことがあるが、改悛という徳によってそれを償い、気高さを手に入れることができるのだ。

3)聖書の登場人物が徳を体現することについては、サラとハガル、またレアとラケルとの対照が挙げられる。サラは徳を体現しているが、最初は不妊であり、諸教育を体現するハガルとアブラハムとの交わりのあとで、喜びの象徴であるイサクを得ることができた。また魂の理性的部分をレアが、非理性的部分をラケルが象徴しているという。レアは徳へと至る理性を司り、ラケルはエンクラテイア(自制心)を生み出すのに必要な道具なのである。

フィロンによる感情理解は、1)魂の構造、2)感情の分類、3)感情の癒しの問題、4)感情を越える狂気、という四区分によって説明されている。

1)当時の哲学の魂の構造理解は、プラトンによる3分類とストア派による8分類とがあった。前者は理性(reasoning)、不屈の精神(high spirit)、欲求(desire)であり、後者は理性(ヘーゲモニコン)と非理性的部分であるその他7つである。フィロンはこれらに加えてさらに、魂にはいかなる本質もないのではないかという懐疑派の議論も取り入れている。フィロンは実際のところこれらのどれにも拘ってはおらず、解釈したい聖書箇所に合うものをその都度取り入れているにすぎない。ただし、彼はエピクロス派による魂の概念のみは取り入れていない。

2)感情の分類について、フィロンは基本的にストア派の議論を下敷きにしているが、それにフィロン流のアレンジを加えている。ストア派は、4つの悪い感情(エピテュミア:欲望、フォボス:恐怖、リュペー:悲しみ、快楽:ヘドネー)と3つの善い感情(喜び:カラ、用心:エウラベイア、願望:ブーレーシス)とがあるとしている。このときストア派は、善い感情としてのカラの悪い感情における対応物はヘドネーであると考えるが、フィロンはリュペーがそれに当たるとしている。フィロンは、従来言われているように、無条件にストア派の説を受け入れていたわけではないのである。同時に、彼はプラトニストによる感情の四区分をストア派の四区分と対応させてもいる。いずれにせよ、フィロンによると、人間の魂は、徳によって倫理的に律されていないときには、こうしたいくつもの感情に支配されてしまうという。たとえば、魂の理性的部分ですら善悪の区別がついていない子供時代は、フィロンに言わせれば、感情の時代といえる(ストア派は子供時代を無垢の時代としている)。

3)では感情をどのように処理したらよいのか。フィロンは、感情的になることも感情を殺すこともない中庸を旨としている。ストア派は、善い感情も悪い感情も共に悪と見なし、感情を根絶すること(radical extirpation of the passions)を求める。これに対しフィロンは、感情を完全に根絶することなど、倫理的に完璧な人間、たとえばモーセのような人以外には無理であるとしたうえで、不完全ながら前進している者たち(プロコプトン)はロゴスによって感情を飼いならすことを目指すべきと述べている。また、仮に完全に感情を根絶した平穏(アパテイア)があるとして、善いアパテイアと悪いアパテイアがあり、善いものは人間の努力ではなく神の恩寵によるものだとフィロンは考える。たとえば、アブラハムがイサクを奉献したときのアパテイアは、自然の秩序を受け入れることによるストア派的なものではなく、むしろそれを否定し、自然を超越する神の存在を信仰することからくる善いアパテイアだったことになる。一方、アブラハムはその後サラの死に悲しみという感情を表しているが、もしここでも感情を殺していたら、それは悪いアパテイア、無関心(indifference)となってしまう。それゆえに、悲しんだアブラハムをフィロンは咎めない。こうした感情の中庸(moderation of emotion)は、メトリオパテイアと呼ばれている。

4)フィロンは有益な狂気(salutary madness)も存在すると述べている。フィロンによれば狂気(マニア)には二種類あり、ひとつは感情の爆発、もうひとつは理性に端を発して神へと至らせるエクスタシーであるという。このうち前者に関しては、フィロンも基本的に否定しているが(深い喜びに満ちた賢者の酩酊のみは、寓意的な解釈によって肯定されている)、後者に関しては、すべての狂気を否定するストア派とは対照的に、彼はこれを賢者の持ち得る狂気として肯定している。ストア派にせよフィロンにせよ、すべての狂気は理性からの離脱を意味すると考えているわけだが、それが魂を非理性へと堕落させるだけとするストア派に対し、フィロンは、神へと至るエクスタシーとしての狂気もあり得ると考えている。

倫理的な発展については、フィロンはさまざまに語っている。代表的なのは、アブラハム、イサク、ヤコブを用いた類比である。フィロンによれば、人間とは、避けがたく感情やその他の悪と関わってしまう生き物だが、神は人間の魂に救済と自由とを与えてくれている。それがアブラハムに象徴される知ろうとする努力、イサクに象徴される自然、そしてヤコブに象徴される実践的な努力である。フィロンはプラトンの『テアイテトス』を下敷きにしつつ、人間はこうした努力をしながらできる限り神に近づかなければならないと述べている。

政治観については、フィロンの主張は単純である。政治のような実務的生活は(bios praktikos)は、観想的生活(bios theoretikos)に入る前にしておけと述べている。またフィロンは人間同士の好意によって社会が維持されていると考えているが、それはストア派のオイケイオーシスのような、親が子に対するときの好意ではなく、聖書に出てくるような子が親に対するときの好意のことを指しているという。さらに、フィロンはモーセのことを、知恵と政治力とが一体となった人物像と捉えており、それゆえにモーセは単に立法者であるだけでなく、律法が具現した人間(nomos empsychos)とすらいえるのである。

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