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2011年5月18日水曜日

クリュソストモス『マタイ講話』50.2 (2)

クリュソストモスは、一貫してマタイの8章と14章を比較しています。8章では、イエスは病を持った人に直接触れたり、言葉で指示を出さなければ癒すことができませんでしたが、14章では人々はイエスの服の裾に触れるだけで癒されています。クリュソストモスは、この転機を9章の「長血の女」の話に置いています。この長血の女がイエスの服の裾に触れるだけで癒され、それを皆に伝えたことにより、人々の信仰が深まったというのです。

そしてクリュソストモスはこのことを受けて、講話を聴いている聴衆に向けて、「私たちも服の裾に触れましょう」と呼びかけます。またおそらくこの講話は聖餐の際のものであったらしく、自分たちは「服の裾」どころか、「彼の体」たる聖餐のパンを持っているのだから、服の裾に触れた者たちが得た力より大きな力を得ることができると述べています。聖書の中にある類似の話の相違点から、説得力をもって自分の言いたいことを引き出し、それを礼拝のテーマにまで持っていく手腕は見事なものですね。

50.2 (PG 58, col.507の原文と私訳)



というのも、彼らは同様に、以前のように近づきはしなかったし、彼(イエス)を家へと引き入れたり、手の接触や言葉を通しての指示を求めたりもしませんでした〔マタ8:5; 9; 15; 16等参照〕。そうではなく、彼らはより高度に、またより知恵を愛するように*1、そして大きな信仰をもって、癒しを引き出そうとしたのです。なぜなら血を流している女が、皆が知恵を愛するように教えたからです〔マタ9:18-26参照〕。福音書記者が示しているところでは、彼(イエス)は長い時間を通じて(しばらく経ってから)その地方に入りました。いわく、《その地の人々は(彼を)認め、その地方にふれまわった。そして彼らは彼のもとに悪い状態にある者たちを連れてきた》〔マタ14:35〕。しかし同じように、この(長い)時間は信仰を消し去ってしまうことがなかっただけではなく、それをより大きなものとなし、盛んな状態に維持しました。それゆえに、私たちもまた、彼の服の裾に触れようではありませんか。それどころか、もし私たちが望むなら、全体としての彼を持ちましょう。というのも、今や彼の体も私たちの前に置かれているからです*2。服だけではなく、体もまたです。そして触れるだけではなく、食べて満たされるために*3。それゆえに、私たちはそれぞれ病を持ちつつも、信仰をもって近づきましょう。なぜなら、もし彼の服の裾に触れる者がそれほどの力を引き出すならば、彼を全体としてしっかり持つ者たちはいかばかりでしょうか。信仰をもって(パンに)近づくことは、前に置かれているもの(パン)をつかむことだけではなく、清い心をもって触れること、そしてキリストご自身に近づく状態にあることでもあるのです。もしあなたが声を聞くことができないとしても、それが何だというのでしょう。置かれているものを見ればいいのです。(そうすれば)むしろ声もまた聞くことができるでしょう。なぜなら、彼は福音書記者を通して叫んでいるのですから。

*1 philosophosは、G. W. H. Lampe (ed.), A Patristic Greek Lexicon, Oxford 1961-68によると、形容詞として1. loving wisdom, 2. wise, 3. Christian, 4. virtuous, 5. contemplative, 6.solitary, 7. monasticという意味がある。ここでは1の意味を取った。

*2 「彼の体」とは、聖餐におけるパンのこと。

*3 emphoreoについて、Lampeはp.458の2.b.でまさにこの個所を挙げて、"grace through union with God"の 意としている。少々訳しすぎのように思われるので、私訳では受動で「満たされる」とした。

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