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2018年12月6日木曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#3 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 43-60.


第2章"Translation Technique of the Vulgate"より。ヒエロニュムスのヘブライ語テクストのVorlageは、特に五書に関しては現在のマソラー本文と同じものだと見なされている(それゆえに、E. Tovによれば、ヘブライ語聖書の本文批評にはほとんど役に立たない)。ヒエロニュムスの翻訳技法を知るためには、テクストそのものと共に、翻訳に関する彼の発言(『書簡57』など)も参考にすることができる。

著者はヒエロニュムスの「意味(sensus)」という語の二段階の理解について分析している。ひとつのレベルは「文献学的な(philological)意味」で、語彙論、形態論、スタイルを統合したものである。これは語彙論と形態論だけに着目する「言葉(verbum)」と対になっている。もうひとつのレベルは「霊的な(spiritual)意味」で、宗教的な文脈における理解のことである。文献学的な意味が翻訳において優勢であるのに対し、霊的な意味は注解においてより中心的な役割を演じている。Pierre Jayによれば、注解においてヒエロニュムスは、聖書の字義的な意味を「ヘブライ的真理」に、そして霊的な意味を七十人訳に結び付けることもあれば、逆に霊的な意味をヘブライ語テクストに、そして字義的な意味を七十人訳に結びつけることもあるという。

『書簡57』には、聖書以外は意訳、聖書だけは逐語訳という原則を書いた箇所があるが、ヒエロニュムスは実際にはこれを無視しており、それどころか書簡の後半では矛盾したことすら述べている。これは、この書簡を書いたのが聖書翻訳の初期のことであり、実際に翻訳が進んでからはフレキシブルになったからと考えられる。またそもそもヒエロニュムス自身が意訳を好む性質だったために、最終的にはこの原則を覆したとも考えられる。

古典文学を引きながらヒエロニュムスが述べているところでは、たとえばキケローは、自身の言語の特徴(proprietas)を通じて、外国語の特徴を明らかにしようとして、省略したり付加したりしたという。というのも、原文のエレガントなスタイルを再現できていない翻訳は、原文の著者が文学的素養を欠いているという誤った印象を与えてしまうのである。それゆえに、「文献学的な意味」が必要なのである。

新約聖書には旧約聖書からの非逐語訳的な訳があるが、著者によると、このことはヒエロニュムスの「意味」の理解を複雑化すると共に明らかにもしているという。さまざまな具体例から、ヒエロニュムスは福音書記者やパウロは聖書を意訳したと結論付けた。それどころか、彼は逐語訳をしているアクィラを悪い例として出してもいるので、『書簡57』における原則(「聖書は逐語訳すべき」)と矛盾しているわけである。著者は、福音書記者らは翻訳において「霊的な意味」を得たのであり、アクィラは「文献学的な意味」への注意を引こうとしたのだと説明している。

このように、ヒエロニュムスの翻訳技法の分析とは彼の意訳へのコミットメントを認めるところから始まる。ウルガータの五書は、古ラテン語訳や、彼が訳した他の聖書文書よりは自由だとされている。ヘブライズムはヒエロニュムスの逐語訳者としてのテクニックを示すが、語源学的な訳し方や釈義的な訳し方、ギリシア語Vorlageの使用、またラテン語の語法に沿う傾向は、彼の自由訳者としてのテクニックを示す。

著者は、ヒエロニュムスの翻訳に三つの方法論があると考えている。第一に、ヘブライ語テクストのみを直接的に考慮している場合、第二に、七十人訳など他の伝承を参照している場合、そして第三に、釈義的な伝承に関わっている場合である。つまり、彼の翻訳がヘブライ語と一致しないときに、すぐにそれは釈義的な伝承の影響と考えるのではなく、まずは七十人訳、古ラテン語訳、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンを用いた可能性を考慮するのである。そしてもしヘブライ語ともこれらの版とも大幅に異なる場合に、初めて釈義的伝承を考慮するのである。しかもそれは、ユダヤ的、古典文学的、そしてキリスト教的な伝承すべてを考慮する必要がある。

ウルガータの出エジプト記の翻訳技法は、逐語訳者を志向してはいるかもしれないが、それは「逐語訳」という言葉の定義に相当の自由度を認めた上でのことであった。翻訳はときにヘブライ的、ギリシア的、古典文学的、キリスト教ラテン的でもあり得た。これをBenjamin Kedar-Kopfsteinのように「一貫していない」とか「矛盾している」とか評価することもできよう。しかしながら、非一貫性とは翻訳の本質である。翻訳とは本性上、同一性や一貫性に基づいた評価に逆らうような文化間あるいは文化内の現象である。

2018年12月2日日曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#2 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 15-42.


第1章"Recentiores-Rabbinic Philology and Vg Exodus"より。ヒエロニュムスは、一方では、ヘブライ語に基づく翻訳のために七十人訳を拒絶したという異端的な批判から身を守る必要があり、他方では、ヘブライ語とユダヤ伝承を不十分にしか理解していないという批判に反論する必要があった。彼が『創世記におけるヘブライ語研究』と聖書の翻訳において用いた方法論は、Adam Kamesarによって「改訂者的・ラビ的文献学(recentiores-rabbinic philology)」と呼ばれている。すなわち、アクィラら改訂者たちとの緊密な関係性のもとでラビ的なソースを用いることで、ヘブライ語テクストの理解に至るという方法論である。

ヒエロニュムスのユダヤ伝承への通暁は明らかだが、2つの問題点がある。第一に、彼はいくらかラビ文献を見たことがあるかもしれないが、その量は個人的なそのときどきのものにすぎない。つまり、ある箇所について特定のラビ的解釈に触れただけであって、全体ではない。それゆえに、ヒエロニュムスが持っている伝承が、たとえば『メヒルタ』やタルグムにあったとしても、彼がそれらを直接読んだかどうかは分からないのである。むしろユダヤ人教師から聞いたものである可能性が高い。第二に、ユダヤ伝承そのものの年代決定が難しい。なぜなら現存するものは、後代になってからまとめられたからである。

ヒエロニュムスのヘブライ語能力は、昨今ではある程度認められている。そもそもこれを否定する言説は、Gustave BardyとPierre Nautinが嚆矢である。彼らは、ヒエロニュムスのユダヤ伝承はオリゲネス由来だと述べたのである。確かに、ヒエロニュムスはヘブライ語教育を受けたと主張しており、実際多くの言及があるが、そこには誤りがあったり、改訂者たちやオリゲネスからのコピーと思われるものがあったりする。しかしながら、著者は、わずかな誤りよりも多くの正しい言及がヒエロニュムスのヘブライ語能力を証明していると述べる。そもそもヘブライ語の誤りが直ちにヘブライ語能力の欠如を示すわけではない。高度な誤りはむしろヘブライ語への習熟を教えてくれる。また彼のヘブライ語能力の発露には、段階や機会の違いが反映することもある。

著者は何人かの研究をまとめている。Megan H. Williamsは、ヒエロニュムスが自己成型(self-fashioning)のために修道制と聖書釈義を統合したと主張する。また彼がユダヤ人やユダヤ教を否定的に描いている一方で、ユダヤ伝承を肯定的に用いているのはなぜか、という問いについて、Williamsは次のように答える。ユダヤ人を否定的に描くのは、修道者としての自己成型のプロセスによるものである。つまり、ヒエロニュムスのユダヤ人との交流を彼自身がどう説明しているかという論点と、実際のテクスト上の平行箇所は、別物として研究しなければならないのである。ヒエロニュムスのユダヤ伝承の利用と彼のユダヤ人描写は、ユダヤ文化とラテン世界のキリスト教との間に架け橋ではなく壁を作ってしまったと言える。彼の翻訳も、その作成過程ではキリスト教とユダヤ教の境界線を超えるものだったが、出来上がったものはその境界線の間の壁となってしまった。

Andrew Cainは、ヒエロニュムスの書簡から、彼の生涯に関する情報というよりは彼のアイデンティティの形成について検証した。Hillel Newmanは、ユダヤ人やユダヤ文学に関する数多くの言及を検証して、古代末期のユダヤ教の実像を明らかにした。Alfons Fürstによれば、こうした昨今のヒエロニュムス研究のトレンドは、「彼の著作が客観的なゴールのみならず、著者の自己成型的かつ散漫な解釈を知ることに資する」のだという。これは、ヒエロニュムスが『エレミヤ書注解』の中でローマ略奪にどのように反応したかを分析したPhilip Rousseauの研究などにも見られる傾向である。

著者が否定的に紹介しているのがJohn Cameronの"The Rabbinic Vulgate?"である。この中でCameronは、ヒエロニュムスが教会の旧約聖書をラビ聖書と取り替えようとしたという(G. Bardyからの影響を受けた)Dominique Barthélemyの主張を覆そうとしている。そのためにCameronは、そもそもヒエロニュムスの聖書はラビ聖書と呼ぶにはラビ的解釈に乏しいのだから、ラビ的釈義ではなく文献学的な翻訳なのだと主張する。これに対し著者は、ヒエロニュムスの聖書がラビ聖書だと言いたいわけではなく、Cameronがヘブライ語テクストに基づく翻訳とラビ聖書とを混同していることを問題視している。そもそもヒエロニュムスの「ヘブライ的真理に従った」という表現は、ラビ的・ユダヤ的翻訳を指すのではなく、ヘブライ語伝統からの文献学的正確さに基づく、キリスト教徒のための翻訳を指している(その注解もミドラッシュではない)。また釈義(exegesis)と文献学(philology)二項対立となるものではなく、古典の文法学で釈義は文献学の一部である。それゆえに、Cameronが「科学的」と呼ぶ文献学的方法論には釈義も入っていなければならないはずである。つまりCameronは、ヒエロニュムスが言ってもいないこと(「自分の聖書翻訳はラビ的釈義だ」)を否定しているだけといえる。それにCameronがこうした主張をするために詩篇に関するヒエロニュムスの見解しか考察していないのも問題である。なぜなら詩篇と翻訳と五書の翻訳ではユダヤ伝承を使う量が明らかに異なっているからである(それは詩篇を扱った『書簡106』と創世記を扱った『ヘブライ語研究』の比較からも見て取ることができる)。

これまでのウルガータ研究のアプローチは、Georg Grützmacherのそれに従ってきた。すなわち、ヘブライ語テクストから翻訳した理由を分類し、翻訳の特徴を定義し、ヒエロニュムスの能力を評価し、その方法論の原則を定義しようとするのである。Grützmacher自身はこうした検証の結果、ヒエロニュムスの翻訳には、アウグスティヌスのような創造的な精神は見られないと主張した。現在の研究ではウルガータの翻訳としての良し悪しを評価することはあまりないが、基本的にはGrützmacherの姿勢を踏襲している(H.F.D. Sparks, Dennis Brown, Eva Schulz-Flügel)。こうした研究は多くの場合わずかな一節や特定の文書の翻訳の分析に終始する(創世記についてFelix Reuschenbach、サムエル記についてVictor Apotowitzer、箴言についてCyrus Gordon、詩篇についてColette Estin, David Paul McCarthy, John Cameron、ルツ記についてRafael Jiménez Zamudio、ダニエル書についてRégis Courtray、エズラ記についてDieter Böhler、トビト記についてVincent T.M. Skemp)。

まだ誰も彼のソース、方法論、翻訳の性格を古代末期の文脈に位置づけて総合的に研究した者はいない。Benjamin Kedar-Kopfsteinは、ヒエロニュムスの翻訳からユダヤ伝承を見つけ出したが、そのうちのいくつかは説得的でない。特に、しばいばギリシア語訳がすでに持っているユダヤ伝承からの影響を見落としている。Neil Adkinは、ラテン古典文学からの影響を検証したが、これも最高の余地がある。著者はこれらの試みを否定しているわけではない。脱文脈化されたフレーズや孤立した問題ではなく、より全体論的かつ十全なアプローチが必要だと考えているのである。

そこで著者はウルガータの出エジプト記を対象とする。出エジプト記は物語、法、詩歌を含み、最も成熟した翻訳の一つでもあるからである。著者は問う。ウルガータの出エジプト記は「改訂者的・ラビ的文献学」を翻訳技法として用いているのだろうか。

2018年12月1日土曜日

ヒエロニュムスの出エジプト記翻訳研究#1 Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions

  • Matthew A. Kraus, Jewish, Christian, and Classical Exegetical Traditions in Jerome's Translation of the Book of Exodus: Translation Technique and the Vulgate (VCS 141; Leiden: Brill, 2017), 1-14.

最新のヒエロニュムス研究書の序章"Jerome and Translation Technique"より。これまでウルガータ聖書研究は、漠然と翻訳としての良し悪しや正確さ不正確さといったカテゴリーで語られてきたが、本書は出エジプト記という特定の書物に関してヒエロニュムスが取った翻訳的な動きを厳密に検証することで、翻訳のプロセスを論じるという新しいアプローチを取っている。

さらに詳しく言えば、本書は第一に、ヒエロニュムスが翻訳に際し「改訂者的・ラビ的文献学(recentiores-rabbinic philology)」を取っていること、そして第二に、彼の翻訳の方法論と結果は古代末期の文脈を反映していることを明らかにする。「改訂者的・ラビ的文献学」とはAdam Kamesarの用語で、ヒエロニュムスがラビ的伝統と対話しつつ、古典文学やアンティオキア学派の文法理論(文献学)を、七十人訳、古ラテン語訳や諸改訂(アクィラ、シュンマコス、テオドティオン)の分析に結合させたことを指す。

著者はまず七十人訳の翻訳技法の研究をまとめる。この分野は、第一に、自由訳と逐語訳を区別する基準を明らかにしており、第二に、翻訳が依拠しているのは逐語的技法か、ヘブライ語の原型(Vorlage)か、それとも釈義的翻訳かを明らかにしており、そして第三に、翻訳学と七十人訳研究の新しい相乗効果を刺激している。

逐語訳と自由訳。ここでは、James Barr、Emanuel Tov、そしていわゆるフィンランド学派(Ilmari Soisalon-Soininen, Raija Sollamo, Anneli Aejmelaeusら)が取り上げられている。Barrは、逐語訳はテクニックの問題だが自由訳は実態的な方法論とはなり得ないと考え、専ら逐語訳について議論した。Tovも逐語訳の基準を統計学的に評価しようとした。Tovとフィンランド学派が逐語訳に注目したのは、本文批評的な理由である。つまり、逐語的な翻訳者が自由訳をしているのは実際には別のVorlageの可能性が高いのである。フィンランド学派はさらに、量的な分析と質的な分析を統合しようとした。

翻訳技法と釈義。W. Edward Glennyは、MTとLXXとの違いを説明するためにあらゆる可能性(違うVorlage、誤読、翻訳技法、転写の歴史、釈義など)を捨てないマキシマリストの立場を取った。そして、七十人訳における翻訳技法に対して、テクスト的アプローチと釈義的アプローチがあるとした。テクスト的アプローチは、翻訳者が原典に忠実であり、相違がVorlageの問題であることを前提とする。一方で釈義的アプローチは、翻訳者が聖書の読みや解釈の知識を翻訳に持ち込み、ミドラッシュ的な釈義技法をテクストに加えることを前提とする。この2つのアプローチを用いることで、Glennyは逐語訳のみならず自由訳の度合いについても扱えるようになった。統計学的な逐語訳の分析だけでは、翻訳のダイナミズムを見失うのである。

さらにGlennyは、翻訳技法の研究のために次の5つの点に注意を喚起している。翻訳技法は、第一に、翻訳技法は評価的ではなく記述であり、第二に、共時的なのものとして翻訳者と読者の文脈が考慮されるべきであり、第三に、パロール(個人的な発話行為)から検証されるべきであり、第四に、起点言語と目標言語の構造の比較分析を伴うものであるべきであり、そして第五に、起点言語を出発点とするべきである。

七十人訳の翻訳技法と翻訳学。Gideon Touryは、テクスト生成とテクスト受容の区別に基づいた記述的な翻訳研究を求めた。彼はさらに、翻訳の文化的な位置としての「機能」に注目した。これは、テクスト生成時よりも受容時のことの方が知られている七十人訳研究には適切なやり方である。七十人訳の場合、翻訳技法の再構成は不確かなものにならざるを得ない。それゆえに、より翻訳の一般的な特徴に関する理論的なモデルは、翻訳プロセスの解明に役立つ。Raija Sollamoは、Touryの理論に依拠しつつ、七十人訳によって、起点言語による目標言語への影響(干渉)の普遍的規範、暗示の明示(補足)、非定型の語彙パターニング、目標言語の過小評価などが明らかになると述べる。こうした規範は逐語訳にも自由訳にも適用できる。

Theo A.W. van der Louwは、翻訳に関する要素をいかに説明するかを論じている。彼のアプローチは、翻訳者の性格や文脈、翻訳者と翻訳の社会的・歴史的・文化的な文脈全般を分析している。変化を分類することは古代の聖書翻訳の分析にとって重要である。そしてとりわけVan der Louwの方法論が特徴的なのは、マソラー本文と比較する前に、七十人訳を独立したテクストとしてまず分析したことである。そうすることで目標言語の視点からギリシア語を理解することができる。その上で、マソラー本文との比較によって得られた変化をカテゴリー化し、本文批評的な発見を吟味し、一番最後に翻訳上の釈義的・イデオロギー的な要素を分析する。

以上のように七十人訳の翻訳技法の研究は、ウルガータの研究のためにも、Vorlageの問題とヒエロニュムスの起点テクストへの関わりの問題を考えることが重要だと知らせてくれる。しかしながら、七十人訳とウルガータの両者には決定的な違いもある。すなわち、七十人訳の翻訳者は無名であるために、彼らの活動時期、来歴、背景、性格、翻訳技法を知るために翻訳そのものしかデータがないが、我々はヒエロニュムスの教育、歴史的文脈、神学的興味、古典学からの影響、ユダヤ人情報提供者、解釈技法への通暁などを知っている。彼のVorlageとして、ヘブライ語テクスト、七十人訳、古ラテン語訳、「校訂者」などさまざまなものがあったことも知っている。そのうえ、彼は自身の翻訳技法について著作の中で言及すらしている。七十人訳の翻訳プロセスにおいては、文法、辞書、コンコルダンス、注解もなかったが、ヒエロニュムスは文献学の訓練、オリゲネスの『ヘクサプラ』、ラビ、先達者の注解、先行する諸訳を持っていた。

ここから、ウルガータは一般的には翻訳技法を分析するための、また各論的には釈義的翻訳を分析するための豊かなリソースとなり得ることが分かる。

2018年10月18日木曜日

4Q252上の聖書引用 Brooke, "Some Remarks on 4Q252 and the Text of Genesis"

  • George J. Brooke, "Some Remarks on 4Q252 and the Text of Genesis," Textus 19 (1998): 1-25.
クムランで発見された聖書写本は、マソラー本文が古代の聖書テクストのひとつの形式にすぎないことを教えてくれた。第二神殿時代の聖書テクストの形式の多様性を示す際に、E. Tovはwitnessという語を用い、E. Ulrichはeditionという語を用いたが、本論文の著者は、J.R. Davilaに倣い、text-typeという語を用いている。これは、客観的に同定されうるソースの最大のグループを指している。そして、第二神殿時代のパレスチナにはいくつもtext-typeがあり、その代表例がサムエル記、エレミヤ書、ダニエル書である。

創世記はというと、第四洞窟の写本が出版される前までは、そうした多元性はあまり意識されてこなかった。サマリア人五書の創世記テクストも、個別のテクストというよりは、改訂版というほどのものと考えられてきた。いわば、似たり寄ったりのものという見解が多数を占めていたのである。しかしながら、第四洞窟のテクストを考慮に入れると、創世記には2つの種類のテクスト・タイプがあることが分かった。第一に、七十人訳に代表されるテクスト、そして第二に、マソラー本文、サマリア人五書、4QGen(a)、4QGen(b)、4QGen(j)、4QGen(f)に代表されるテクストである。論文著者は、4Q252がどちらのグループに属すのか、また単なる写字生の誤りに見えるような箇所にいかに釈義上のパラフレーズが隠れているのかを示そうとしている。

論文著者は、4Q252に出てくる聖書引用と思われる24箇所を分析した結果、引用は次のような4つのカテゴリーに分けられると結論付けた。第一に、4Q252がMTともLXXとも一致しない場合、第二に、4Q252とLXXが一致し、MTが一致しない場合、第三に、4Q252とMTが一致し、LXXが一致しない場合、そして第四に、4Q252のみが独立し、MTとLXXが一致する場合である。

ここから分かることは、4Q252の聖書テクストはLXXのテクスト・タイプを反映しているが、MTとは異なるということである。また4Q252の聖書テクストは釈義的なものも多く、テクストの伝達の歴史はテクストの解釈の歴史と切り離せないといえる。

2018年8月28日火曜日

エピファニオスと聖書 Jacobs, "Scripture"

  • Andrew S. Jacobs, Epiphanius of Cyprus: A Cultural Biography of Late Antiquity (Christianity in Late Antiquity 2; Oakland, Cal.: University of California Press, 2016), 1-29, 132-75.
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研究者の間でサラミスのエピファニオスはとかく評判が悪い。彼は反知性的な浅い神学を持った民衆扇動家であり、性格の悪い異端のハンターだと見なされてきた。同時代の教父たちがギリシアのパイデイアに精通しており、その上に新しいキリスト教文化を築こうとしたのに対し、彼は無教養だった。しかしながら、いかにエピファニオスに問題が多くとも、当時の社会に対して大きな影響力を持つ人物であったことに変わりはない。彼を無視して、歴史研究者の関心に適うキーパーソンたち(たとえば、クリュソストモス、カッパドキア教父、アタナシオス、アウグスティヌス、アンブロシウス)のみを取り上げてばかりでは、同じような研究を再生産するだけである。

そこで著者は、エピファニオスを通して、キリスト教古代末期を理解するためのフレームワークを広げることを本書の目的としている。そしてその試みを「文化的伝記」と呼んでいる。なぜなら、エピファニオスの人生を学ぶことで、キリスト教文化の新しい理解を得るからである。多くの教父たちが異教の価値を認め、それをキリスト教化し、対立を解消しようと腐心したのに対し、エピファニオスはそのような対立や分裂には頓着しなかった。

エピファニオスは多作な作家ではなかった。またその作品はアドリブで口語的なギリシア語で書かれており、推敲もあまりされていなかったようである。書簡もわずかに残っているが、彼は書簡で自らの文学的なペルソナを形作ろうとはしなかった。エピファニオスの本領は『パナリオン』や『尺度と重さについて』などの論文で発揮された。

エピファニオスの聖書解釈は、しばしば寓意や比喩的解釈を理解せず、単純な字義的解釈に留まっていると言われてきた。しかしながら、著者はその一見欠点に見える特徴を、世界の知識を統一的に習得することを目指す「古物研究(antiquarian writing)」の伝統から説明する。この伝統は、大プリニウス、ウァッロー、プルタルコス、ゲッリウスから、セビーリャのイシドロスまで連綿と続くものである。彼ら古物研究家たちは、全然関係のない文化材料を取り上げて、その文化のイメージを伝えるフォーマットにまとめた。彼らの著作は乱雑で統一的な原理を欠いていたが、秩序がないわけではない。既存の知識をマッピングし植民地化する帝国のような統合力を持っていた。

エピファニオスの聖書解釈のモードには、古物研究が強く反響している。それは、オリゲネスの哲学的な聖書解釈のような明確な構造を持たず、ガラクタのようにも見えるが、包括的で総合的である。エピファニオスを修辞や哲学のレンズを通してみると、奇妙に直解主義的な字義的解釈や思いがけない逸脱、リスト、数、論理的なギャップが目に付くが、代わりに地理、歴史、政治、教義、名前、引用、断定、予言など多くの情報を得られる。エピファニオスの目的は説得ではなく、カタログを提供することであった。

エピファニオスの論文のひとつである『尺度と重さについて』は、聖書における尺度と重さのみならず、聖書の構造や内容と地名に関しても議論している(2-8)。エピファニオスは、まず聖書の校訂記号(アステリスコス、オベロス、レムニスコス、ヒュポレムニスコス)を説明している。

こうしたエピファニオスの著作は、他の教父たちのように、古典古代をキリスト教化しようとしたわけではない。古物研究的な著作の前では、古典とキリスト教とは結び合わされ、強められているからである。Michael Robertsは、古代末期の詩歌を「宝石に飾られたスタイル(jeweled style)」と呼んだが、著者はこれに倣って、エピファニオスの聖書を「宝石に飾られた聖書」と呼んでいる。そうした意味ではエピファニオスの聖書理解はユニークなものではなく、時代に即している。彼は聖書を知識のソース、また古物研究の対象と見なしたのだった。

2018年8月26日日曜日

ヒエロニュムス『アモス書注解』と『ヘクサプラ』 Dines, "Jerome and the Hexapla"

  • Jennifer M. Dines, "Jerome and the Hexapla: The Witness of the Commentary on Amos," in Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25th July-3rd August 1994, ed. Alison Salvesen (Texte und Studien zum antiken Judentum 58; Tübingen: Mohr Siebeck, 1998), 421-36.
Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25Th-3Rd August 1994 (Texte Und Studien Zum Antiken Judentum)Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25Th-3Rd August 1994 (Texte Und Studien Zum Antiken Judentum)
England) Rich Seminar on the Hexapla (1994 Oxford Alison Salvesen

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ヒエロニュムスの釈義的な著作は、アクィラ訳等の諸ギリシア語訳の主たるソースである。ヒエロニュムスと『ヘクサプラ』の関係や、そうした情報にアクセスした方法は明らかでない。彼自身はカイサリアの図書館で使ったことがあると、少なくとも2回述べているが(『テトス書注解』3.9、『詩篇注解』1)。おそらく、聖書本文に注釈がついた『ヘクサプラ』写本を所有していたと思われる。

ヒエロニュムスは、オリゲネスの改訂版七十人訳は、ギリシア語訳の中ではヘブライ語原典により近いものだと考えていた。しかし、彼がどの程度『ヘクサプラ』改訂版を翻訳に用い、また注解で依拠したかについては、いまだ結論が出ていない。本論文はこうした議論について扱うものではないが、『ヘクサプラ』資料が用いられている著作(すべての注解書、翻訳への序文、『創世記のヘブライ語研究』等、聖書本文批評や釈義を扱った『書簡20』や『書簡106』など)のうちでも、特に『アモス書注解』を取り上げている。

『アモス書注解』は、十二小預言書への注解シリーズの最後の注解(406年)である。十二小預言書シリーズを書いていたときのヒエロニュムスの方法論は、基本的に一貫している。ヒエロニュムスの注解の特徴のひとつは、ダブル・レンマである。彼は注解を始まる前に、ヘブライ語テクストのラテン語訳だけでなく、対応する七十人訳のラテン語訳を挙げる(前者はほとんどウルガータと同じ訳文であるが、伝承の過程で同じものに変えられた可能性は捨てきれない)。ただし、彼が一貫して両方挙げるのは『アモス書注解』が最後で、それ以降の『ダニエル書注解』、『イザヤ書注解』、『エゼキエル書注解』、『エレミヤ書注解』では、ヘブライ語テクストと異なるときのみ七十人訳を挙げている。ダブル・レンマにおいては、1節だけの場合もあれば、6節いっぺんに引用する場合もある。

レンマのあとは、ヘブライ語テクストの字義的・歴史的解釈が続く。これはヘブライ語の単語の意味や七十人訳との違いなども含んでいる。そのあとは七十人訳に基づく内的・霊的解釈となる。このときに、視点はイスラエルから新約聖書と教会へ、さらには正統キリスト者への倫理的な励ましや異端への攻撃などになる。字義的解釈から霊的解釈への移行は、アンティオキア学派でもアレクサンドリア学派でもよく見られるが、ヒエロニュムスがユニークなのは、字義的解釈をヘブライ語テクストと、霊的解釈を七十人訳テクストと結び付けている点である。ただし、2つのテクストを組織的に比較しないこともある。ヒエロニュムスは、字義的であれ霊的であれ、自分のあとの説明に資する箇所にしかコメントしないときがある。

テクストの選定に関しては、オリゲネスが諸ギリシア語訳を使うのは、七十人訳の異読のどれが正しいかを決めるためであるのに対し、ヒエロニュムスは、ヘブライ語テクストと七十人訳とのどちらが正しいかを決めるためにそれらを用いる。またヒエロニュムスは緒ギリシア語訳を『ヘクサプラ』の順に引用している。さらに、ヒエロニュムスは翻訳の力学や、翻訳者の読み間違い、そしてヘブライ語テクストの破損の可能性についても言及している。ただし、この当時のヒエロニュムスは視力が衰えていたので、記憶ではなく実際のテクストを使っていたとしたら、アシスタントがいたはずである。

ヒエロニュムスはヘブライ語テクストそのものに(破損以外の)問題があるとは考えないが、諸ギリシア語訳の読みについては問題視することはある。また諸ギリシア語訳は字義的解釈でも霊的解釈でも用いられる。『アモス書注解』では、諸ギリシア語訳のうち、シュンマコス訳が8回、アクィラ訳が5回、テオドティオン訳が2回採用されており、ここからシュンマコス訳が特に重視されていたことが分かる。諸ギリシア語訳の多用から、ヒエロニュムスは『ヘクサプラ』のリソースを利用していたと考えられる。三者以外にクインタも用いていることから、独立したリソースではなく、オリゲネスのコレクションの後継となるものを所有していた可能性が高い。

字義的解釈において、ヒエロニュムスは諸ギリシア語訳を名前を挙げて引用している。これに対し、たとえばオリゲネスは組織的にそうした読みを注解で用いることはないし、名前も挙げず、「他の版(ハイ・ロイパイ・エクドセイス)」と一緒くたに呼んでいる。ディデュモス、ヒッポリュトス、モプスエスティアのテオドロスはほとんど本文に関する議論をしない。エウセビオスは諸ギリシア語訳を引用するが、それらに評価を与えてはいない。

ヒエロニュムスの霊的解釈は、少なくともオリゲネスにさかのぼるような伝統を受け継いでいる。明らかに既存の注解を利用している。『アモス書注解』ではオリゲネスなどギリシア教父に比較対象があまりないのでよく分からないが、ディデュモス『ゼカリア書注解』、オリゲネス『詩篇注解抜粋』や『エレミヤ書説教』などを見ると、ヒエロニュムスがそれらに大いに依拠していたことが分かる。

以上より、ヒエロニュムスの特徴は、ヘブライ語テクストとギリシア語テクストを常に同時に扱っていることといえる。それによって、彼以前の教父たちよりも、テクストそのものに注目している。諸ギリシア語訳は、ヘブライ語テクストとその解釈を追及する中で利用される。ただし、諸ギリシア語訳は字義的解釈と霊的解釈の両方で用いられる。そして字義的・歴史的解釈をヘブライ語テクストに、霊的解釈を七十人訳に帰することも彼独自の発明である。さらに、頻繁に世俗の文化に言及し、古典期のラテン語作家を直接引用することもヒエロニュムスに特徴的である。

2018年8月24日金曜日

オリゲネスの旧約聖書 Ulrich, "Origen's Old Testament"

  • Eugene Ulrich, "Origen's Old Testament: The Transmission History of the Septuagint to the Third Century, C.E.," in Origen of Alexandria: His World and His Legacy, ed. Charles Kannengiesser and William L. Petersen (Christianity and Judaism in Antiquity 1; Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press, 1988), 3-33.
Origen of Alexandria: His World and His Legacy (Christianity and Judaism in Antiquity)Origen of Alexandria: His World and His Legacy (Christianity and Judaism in Antiquity)
Charles Kannengiesser William L. Petersen

Univ of Notre Dame Pr 1988-10-01
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本論文は、オリゲネスによって用いられた旧約聖書テクストの性質を明らかにしたものである。

古ギリシア語テクストの起源と性質。『アリステアスの手紙』以外の七十人訳に関する証言としては、デメトリオス、エウポレモス、ベン・シラの序文、いくつかのパピルス、クムラン写本などがある。つまり、ギリシア語訳聖書の現存する証拠は、前2世紀から3世紀にさかのぼる。研究史においては、ヘブライ語聖書のユダヤ的翻訳としての古ギリシア語テクストと、初期キリスト教の教会の聖書としてのギリシア語旧約聖書を区別しなければならない。前者は、ヘブライ語聖書のより古くよりよい本文に戻ることを目的とした観点であり(E. Tov)、後者は、教会の聖書テクスト使用を知ることを目的とした観点である(M. Harl)。前者の観点は、P. de Lagardeによる理論(現在のさまざまな七十人訳テクストは、3つの改訂を通じて、単一の翻訳にさかのぼる)に依拠している。ヘブライ語テクストと七十人訳のテクスト上の違いは、神学的な傾向によるものというよりは、七十人焼くテクストが定本としたヘブライ語テクストと、現在のヘブライ語テクストが異なるからである。

初期ギリシア語テクストから『ヘクサプラ』への伝達。ヘブライ語テクストの伝達は比較的単純であり、死海文書の聖書写本とマソラー本文に大きな違いは見られない。『ヘクサプラ』以前のギリシア語聖書のテクストは、プロト・テオドティオン、アクィラ、シュンマコスらの改訂など、各地各時代さまざまだった。他に見るべきは、古ラテン語訳、新約聖書や古代作家たちによるヘブライ語聖書の引用、ヴァティカン写本、パピルス967などがある。

オリゲネスと『ヘクサプラ』。ミニマリスト的立場から言うと(D. Barthelemy, P. Nautinら)、第一に、オリゲネスのヘブライ語能力は貧弱であり、第二に、オリゲネスが「ヘブライ人」というとき、それはヘブライ語テクストそのものではなく、それを反映したギリシア語訳であるアクィラらのことを指しており、第三に、『ヘクサプラ』にヘブライ語の欄は存在しなかった。

これに対し、論文著者はもう少しバランスの取れた見解を持とうとする。オリゲネスは少なくとも少しはヘブライ語ができたようであり、ヘブライ語テクストを直接見た(イザ7:14について)ことを証言しており(『ケルソス駁論』1.34)、『ヘクサプラ』にヘブライ語の欄がなかったと証明はできないという。

ただし、ヘブライ語テクストを直接見た件に関する論文著者の議論はやや苦しい。処女懐胎についての議論で、オリゲネスは「アルマー」というヘブライ語について論じている。そこで申22:23-26での用法を例として挙げているわけだが、そこに「アルマー」という語は出てこない。つまりオリゲネスはヘブライ語テクストをチェックしていないわけだが、論文著者はこのことが証明しているのはオリゲネスがヘブライ語を知らなかったことではなく、彼がヘブライ語テクストをチェックするほど根気強くなかったことだと主張する。

『ヘクサプラ』にヘブライ語欄がないというミニマリストの主張は、現存する『ヘクサプラ』の後代の写本(メルカーティ写本など)にそうした欄がないこと、そしてエウセビオスの証言にヘブライ語欄についての説明がないことに基づいている。論文著者は、現存する写本は『ヘクサプラ』そのものではなく、あくまで後代の写本であると指摘する(そして後代にヘブライ語を読めた写字生は少なかったはずである)。またエウセビオスは他の欄についてもいい加減な説明をしているので、彼がヘブライ語欄について述べていないからと言って、その存在がなかったとは言えないと主張する。それどころか、写本のひとつには、ヘブライ語欄の跡のように見える4つの点もあるという。

オリゲネスの評価。オリゲネスが『ヘクサプラ』によって成したことに対する評価という点では、多くの研究者は否定的である(S.R. Driver, D. Barthelemyら)。否定的でなくとも、肯定的ではない(J.W. Trigg, P. Nautinら)。オリゲネスは、同時代のユダヤ人が用いていたヘブライ語テクストが、七十人訳の底本だったヘブライ語テクストと同じものだと考えた。そして、その自分の持っているヘブライ語テクストに基づいて七十人訳を改訂してしまったわけである。しかし、もしかしたら七十人訳(およびその底本だったヘブライ語テクスト)の方が優れた読みだったかもしれないのである。

論文著者も、この点ではオリゲネスの改訂は褒められたものではないと考えている。何となれば、ゲッティンゲン版やケンブリッジ版の七十人訳校訂版は、この『ヘクサプラ』改訂版の影響を脱することを目的としているからである。とはいえ、キリスト教伝統のために聖書の本文批評のパイオニアとなったことは確かである。

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