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2019年9月23日月曜日

『エノク書』のキリスト教への導入 Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha"

  • Michael A. Knibb, "Christian Adoption and Transmission of Jewish Pseudepigrapha: The Case of 1 Enoch," in id., Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (Studia in Veteris Testamenti Pseudepigrapha 22; Leiden: Brill, 2009), 56-76.

Essays on the Book of Enoch and Other Early Jewish Texts and Traditions (STUDIA IN VETERIS TESTAMENTI PSEUDEPIGRAPHA)
Michael A. Knibb
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ユダヤ教の外典・偽典に関するわれわれの知識は、多くの部分をキリスト者による採用と保存に依拠している。ある文書のユダヤ教性とキリスト教性の間にはさまざまな段階がある。ユダヤ教テクストの間にキリスト教的語彙が入ってくるものとしては『第四エズラ記』や『第四バルク書』、ユダヤ伝承を多く用いたキリスト教文書としては『十二族長の遺訓』、旧約聖書の材料を使いつつキリスト教的暗示を加えないキリスト教文書としては『アダムとイヴの生涯』や『預言者伝』がある。いずれも、ユダヤ教文書ともキリスト教文書とも決めがたい。そもそもキリスト教的改変がまったくない文書でも、キリスト教的コンテクストで読まれてしまう場合がある(旧約聖書がそうであったように)。分類の方法論については、Robert KraftやMarinus de Jongeらの研究に詳しい。

この点、『エノク書』もまた明らかにユダヤ教起源でありながら、キリスト教徒によって伝達されたテクストである。論文著者は『エノク書』のテクスト、文書形式、エチオピアの文脈での解釈などについて論じている。

①テクスト。『エノク書』のアラム語テクストには、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む7写本と、「天文の書」を含む4写本がある。Josef Milikはこれらをギリシア語訳やエチオピア語訳に基づいて再構成したが、仮説的なものにとどまる。

ギリシア語訳もユダヤ人の手になるものである。断片がクムラン第7洞窟で見つかっているが、小さすぎて何のテクストかを同定するのは困難である。ギリシア語訳は、クムラン以外では、ギゼ写本(6世紀)とチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルス(4世紀から)から多く見つかっている。いずれの写本にも別のキリスト教文書が一緒に保存されていることから、『エノク書』がキリスト教徒の間でよく読まれていたことが分かる。他には、シュンケッロス『年代記』中の引用は比較的よいテクストを保存している。

ギリシア語訳の重訳であるエチオピア語訳は唯一全体を残すものであるが、これはもともと5~6世紀に聖書全体のエチオピア語訳の一環として作成された。テクストは、より古いグループ(15世紀の写本が残る)とより新しいグループに分かれる。

これらのうちどのテクストがよいのか。アラム語テクストは断片的である。ギリシア語訳は主要部分を含まず、コンディションもよくない。エチオピア語訳はキリスト教的要素を含み、写本も15世紀より前には遡れない。そこから、なるべくアラム語テクストに依拠しつつ、他の諸訳も最上の証言を混ぜて用いるべきと論文著者は述べる。

②文書形式。Josef Milikによると、クムランのアラム語『エノク書』は写本の長さの関係で2巻(「寝ずの番人の書」「巨人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む部分と「天文の書」のみを含む部分)に分かれていたが、実際にはエチオピア語訳のような五部構造を持っていたと主張した。Milikはさらに4Q204の状況から、「巨人の書」は独立してではなく他の3巻と一緒に読まれていたと主張したが、Stuckenbruckはこの議論は疑わしいと反論する。

またクムランからは「たとえの書」が出てきていないため、同書が他の書物と同様にアラム語で書かれていたのか、それともこれだけはヘブライ語で書かれていたのかも分からない。では、現在のエチオピア語訳のように、「巨人の書」の代わりに「たとえの書」入りの五部構造のギリシア語訳成立はいつからなのだろうか。Milikによれば、おそらく4世紀になって「巨人の書」があまりにマニ教徒に人気だったために取り去られ、6世紀になって代わりに「たとえの書」が入り、それがエチオピア語訳されたという。Milikは「たとえの書」はキリスト教文書であったと主張したが、これはほとんど受け入れられていない。

George Nickelsburgはより詳細な議論を基に、「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」を含む形態の写本がクムランには前1世紀にはあったと主張した。この見解は概ね受け入れられるが、論文著者は以下のように批判する。第一に、Nickelsburgは「巨人の書」がもともとも含まれていたのかそれともあとから取り去られたのかを説明していない。第二に、「天文の書」と「たとえの書」があとからどのようにコーパスの中に入ったのかを説明していない。またNickelsburgは、「たとえの書」が部分的に「寝ずの番人の書」における伝承の発展を代表していると主張したが、これは「たとえの書」が「寝ずの番人の書」のすぐ後ろにあることから妥当性が高い。

こうした研究史を受けてさらに指摘できるのは、第一に、アラム語テクスト、ギリシア語訳、エチオピア語訳は比較的似た本文を持っているが、ことに「天文の書」に関してはアラム語テクストとエチオピア語訳はかなり異なっている。そして第二に、エチオピア語訳にはかなりのキリスト教的な要素が入っている可能性があるが、それらはユダヤ教の文脈でも読めないわけではないので、そういった要素に関係なく一度キリスト教徒の手に渡ったら、キリスト教的に読まれたのであろう。

③エチオピア教会の文脈での解釈。『エノク書』はエチオピア教会では正典として読まれていた。エチオピア語訳の写本は15世紀をさかのぼらない。ちょうどその頃に、『エノク書』(特に「たとえの書」)からの引用を多数含んでいる説教集『マシャファ・ミラド(聖誕の書)』が作成された。引用はとりわけキリスト論的な解釈のもとでなされている。

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