2018年5月20日日曜日

ヒエロニュムスのユダヤ人教師 Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers"

  • Megan Hale Williams, "Lessons from Jerome's Jewish Teachers: Exegesis and Cultural Interaction in Late Antique Palestine," in Jewish Biblical Interpretation and Cultural Exchange: Comparative Exegesis in Context, ed. Natalie B. Dohrmann and David Stern (Jewish Culture and Contexts; Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2008), pp.66-86, 258-63.
ヒエロニュムスはユダヤ人教師から、ユダヤ人、彼らの習慣、そして彼らの聖書解釈を学んでいた。彼の持っている情報は概ね良好である。ここからは、単にある聖書解釈の伝統が別の伝統に影響を与えたことだけでなく、ユダヤ人とキリスト者の直接のコンタクトがあったことを窺い知ることができる。

380年の中期にベツレヘムに移り住むと、ヒエロニュムスはヘブライ語聖書の翻訳と預言書の注解に力を傾注した。そのときに彼が参照したのが、東方教父とパレスチナのユダヤ人の持っていた伝統だった。東方キリスト教の伝統には、直接師事した教父たちや文書を通じてアクセスしたが、ユダヤ人の伝統には、フィロンやヨセフスを除いて文書でアクセスすることはほとんどできなかった。そこで、彼はユダヤ人情報提供者とのコンタクトを取ったのである。

ヒエロニュムスのユダヤ人に対する態度はアンビバレントである。一方で、ユダヤ人教師に師事し、ユダヤ的な聖書解釈に繰り返し従いながら、他方で、当のユダヤ人やその聖書解釈に敵対的なことも書いている。これを単に「ヒエロニュムスは分裂した人格を持っていた」(Benjamin Kedar)と説明するだけでは不十分であろう。ヒエロニュムスがユダヤ文化と西方世界との架け橋になったのは、単に不本意な結果だったのだろうか。

4-5世紀におけるユダヤ人とキリスト者との交流は、かつて考えられていたよりも活発で重要なことだったことが明らかになっている(John G. Gager)。また「ユダヤ人」と「キリスト者」、あるいは「ユダヤ教」と「キリスト教」というカテゴリーは不安定ではっきりしないものであり、完全な別物と考えることはできない。影響関係についても、どちらが影響を与え、どちらが与えられたかを問うことは難しく、むしろ創造的な相互のプロセスだったと考えるべきである(Peter Schaefer)。

とはいえ、論文著者は、両グループが敵対心を持って互いを見ていたことは否定できないし、影響関係にも完全な中立はあり得ないと述べる。とりわけヒエロニュムスの著作は、そうした敵対心があったという社会の現実の証拠を示している。それゆえに、彼の著作を読むために、よりホリスティックで洗練された読み方が必要とされる。

3世紀から4世紀にかけて、「異教」としてローマの伝統宗教は、文化や宗教のリソースとして潜在的な活力をまだ失っていなかった(Peter Brown)。しかしながら、4世紀にキリスト教は国教化する。これは、カルトや蛮族の侵入といった外的要因によって異教が力を失ったからではなく、帝国の内的変化によって起こったものと考えられる。この変化の理由は、司教たちがローマの市民生活のあらゆる領域で自分たちの権威を確立しようとしたことにあるという。こうした前提からミラノのアンブロシウスのキャリアを再解釈すると、彼が皇帝との関係性を強化して自らの司教としての生き残りを模索した様子が浮かび上がってくる(Neil McLynn)。

しかしながら、こうした司教たちの動きは、キリスト者と非キリスト者という明確な分離を生み出した。それまで未分化だったキリスト教と異教とが、355年以降になると、はっきりと分かれてしまった。つまり、キリスト教が確固とした社会的地位を獲得していくに従って、そうでないものとしての異教があらわにされていったのである(Robert Markus)。そしてヒエロニュムスの時代こそは、キリスト教が社会的・文化的に最もはっきりとしたアイデンティティを持っていた時代であった(その後キリスト教は成長を続け、一人勝ちした結果、キリスト教が他を吸収するかたちで再び未分化になる)。

ローマの伝統宗教がそうであったように、ユダヤ教もまたキリスト教にとっての他者であった(Daniel Boyarin)。テオドシウス1世以降のキリスト教皇帝たちがユダヤ人をキリスト教徒と別個のカテゴリーと見なし、「誤り」として区別したことは、ユダヤ人とキリスト教徒との間に法的権利上の大きな差異を生み出した(Seth Schwartz)。ただし、その差異は、キリスト教と異教との差異とは微妙に異なってもいた。異教徒や異端者がキリスト教への改宗を強制されたのに対し、ユダヤ人は社会の周縁に押しやられつつも、改宗を強制されなかったのである。というのも、アウグスティヌスのユダヤ人理解に見られるように、ユダヤ人を悲惨な運命のまま、生かさず殺さずの状況下に置くことで、キリスト教の正しさが証明されるからである。もしユダヤ人がいなくなってしまったら、キリストを拒絶し殺したものたちの後継者として、集合的な罪を一身に背負う存在がいなくなってしまう(Paula Fredriksen)。Schwartzはさらに、礼拝での詩歌であるピユートには、古代末期のキリスト教徒による反ユダヤ的な神学を取り込んだ内容のものが見られると述べる。ヤンナイなどの詩人は、ユダヤ人の衰亡とエドム(=キリスト教的ローマ)の繁栄を対照的に描いている。

さて、ヒエロニュムスが活動を始めた時期には、ユダヤ人とキリスト者の境界線は明確ではなかったが、彼自身がそれを越えてユダヤの聖書解釈を取り入れていくことによって、かえってその境界線は強まった。ヒエロニュムスの大きな業績は、預言書の注解と聖書の翻訳である。彼の注解は、テクストを字義的・歴史的意味と、寓意的・霊的意味に分ける。まずは字義的解釈によって、聖書の歴史的意味を明らかにした上で、それから寓意的解釈によって、聖書の霊的意味を明らかにする(そのときに前者は後者から独立しているのではなく、むしろそれを抑制する)。興味深いことに、彼は、字義的・歴史的解釈をユダヤ的、そして寓意的・霊的解釈をキリスト教的と呼ぶ。これは、それぞれの解釈法で依拠したソースを表しているのではない。なぜなら、彼の寓意的解釈には、明らかにユダヤ教のミドラッシュから取られたものもあるからである(逆もまた然り)。

ヒエロニュムスがユダヤの解釈伝統のカテゴリーに帰しているのは、本文批評、歴史的解釈、そして千年王国説的解釈である。第一に、本文批評に関して、ヒエロニュムスが実際に依拠しているのはオリゲネスの『ヘクサプラ』であるが、彼はそれを常にユダヤ人教師から習ったと主張する。第二に、歴史的解釈は、ヒエロニュムスがユダヤ資料から直接学んだものものあれば、オリゲネスが彼の教師から習ったものを間接的に学んだものもある。また、ユダヤ人のものともキリスト者のものとも限定されない、シリア・パレスチナで共有されていた聖書解釈も含まれていた。

そして第三に、千年王国説的解釈は、神の国が地上に到来することを予言するような解釈のことであるが、これをヒエロニュムスはユダヤ由来とした上で、無意味で不快なものとして紹介している。ただし、やはりこれも実際にはユダヤ的伝統のもののみならず、キリスト教的な黙示的解釈をも含んでいる(テルトゥリアヌス、エイレナイオス、ウィクトリヌス、ラクタンティウス、アポリナリオスなど)。この解釈においてヒエロニュムスが問題としているのは、メシアが到来した未来には、大いに食べたり飲んだり結婚したりすることが許される、といった色欲に関わる事柄が含まれていることだった。修道者である彼は、これらを唾棄すべきものだと考えた。以上のように、ヒエロニュムスは、キリスト教的解釈であっても、彼が同意しないものはユダヤ的と呼んだのだった。

このようにして、ヒエロニュムスがある特定の注解を「ユダヤ的」と呼んだことは、キリスト教とユダヤ教との分化が加速する一因となった。この不当表示は、不当ながら力強いものであり、単なる修辞を超えて、のちに司教や帝国の権力と結びつくことで、既成事実となったのである。

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