2018年5月22日火曜日

七十人訳とヘブライ語テクスト、寓意的・霊的解釈と字義的・歴史的解釈  Lössl, "A Shift in Patristic Exegesis"

  • Josef Lössl, "A Shift in Patristic Exegesis: Hebrew Clarity and Historical Verity in Augustine, Jerome, Julian of Aeclanum and Theodore of Mospuestia," Augustinian Studies 32.2 (2001), pp. 157-75.

本論文は、旧約聖書の解釈に際して、基準となるテクストを七十人訳とヘブライ語テクストのどちらにするのか、そしてその解釈法はどのようなものであるべきか、といった問題について、4人の教父たち、すなわち、アウグスティヌス、ヒエロニュムス、エクラヌムのユリアヌス、そしてモプスエスティアのテオドロスの特徴を明らかにしたものである。

アウグスティヌスはヒエロニュムスに対し、七十人訳のラテン語訳(=七十人訳版)を作成するようにと繰り返し進言していた。なぜなら、アウグスティヌスにとって、七十人訳は霊感を受けた権威あるテクストだったからである。彼は結局それを得ることは叶わなかったが、ヒエロニュムスによるヘブライ語テクストのラテン語訳(=ヘブライ語版)は手に入れた。そのヘブライ語版を、彼は『神の国』の中で少なくとも6回七十人訳と比較している。ただし、それは異読を知るためであって、あくまでも基礎となるのは七十人訳である(ただし、例外として『キリスト教の教え』4.7.15-21でアモス書の一節を七十人訳なしでヘブライ語版のみを引用している)。ヘブライ語版を引用するのは、文学的・修辞的分析をするためだけである。ただし、その修辞的分析は、神学へと繋がってもいる。なぜなら、預言者たちは雄弁であると同時に神的な知恵を持っていもいるからである。

ヒエロニュムスは、ヘブライ語テクストに基づいたラテン語訳聖書を作成したわけだが、ヘブライ語やヘブライ語聖書の学びは、当時ユダヤ人の専売特許と考えられていたので、彼は親ユダヤと考えられていた。しかしながら、彼の学びは、実際には反ユダヤ・プロパガンダのために行われていた。『創世記におけるヘブライ語研究』において、彼はラビ的教えがギリシア聖書学を凌ぐと述べているが、彼の基本的な考え方によると、「ヘブライ的真理」はギリシア・ラテン聖書学の文献学的・歴史的な誤りを明らかにはするが、より深い霊的なレベルでは、そうした誤りはむしろより高次の真理として明かされるという。それゆえにこそ、彼の注解の「二重見出し」において、ヘブライ語版による引用は歴史的・文献学的解釈を、七十人訳版による引用は霊的・寓意的・予型論的解釈を導く。

アウグスティヌスとヒエロニュムスは結局のところ七十人訳を重視していたが、エクラヌムのユリアヌスはヒエロニュムスのヘブライ的傾向をさらに推し進め、ヘブライ語版のみを重視した。なぜなら、そこに明晰さ、統合性、信頼性があるからである。ユリアヌスにとっての七十人訳版は二次的なものにすぎなかった。ヘブライ語版に依拠して、厳格に修辞的・文学的分析に終始することで、ユリアヌスはテクストの「一貫性(consequentia)」を提示しようとした。この一貫性には、歴史的意味の一貫性のみならず、ときに予型論的意味や寓意的意味の一貫性をも意味する。ユリアヌスにとってのテクストの意味とは、アウグスティヌスよりもヒエロニュムスよりも厳格に、シンプルな字義的なものを指すのだった。ただし、彼の議論の土台はヒエロニュムスのヘブライ語版であり、彼の注解もヒエロニュムスに多くを負っている。

ユリアヌスの字義的・歴史的アプローチは、一方ではヒエロニュムスに由来するものだが、他方ではモプスエスティアのテオドロスにも由来する。ユリアヌスはテオドロスの注解を訳したことが知られているが、ことによるとある時期テオドロスのもとで学んでいた可能性すらある。テオドロスはオリゲネスやディデュモスの寓意的解釈を拒絶し、歴史的解釈に集中した。彼は、七十人訳にあいまいなところがあるのは、それが翻訳だからだと考えていたが、それを明らかにするために、ヒエロニュムスのように後代のギリシア語役者たち、すなわち、アクィラ、シュンマコス、テオドティオンを参照することはなかった。彼にとってテクストが正しいか否かは、その物語の真実味にかかっていた。彼はそれにこだわるあまり、アンティオキア学派において重要なテオーリアすら無視することもあった(テオーリアとは、寓意のように第二段階の意味を導くのではなく、意味の強度を示すことにある)。

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