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2015年5月25日月曜日

第四マカバイ記の文学形式 Lebram, "Die literarische Form des vierten Makkabäerbuches"

  • J.C.H. Lebram, "Die literarische Form des vierten Makkabäerbuches," Vigiliae Christianae 28 (1974): 81-96.

『第四マカバイ記』(以下四マカ)は、理論および具体例によって、「ユダヤ律法遵守が情念の克服であること」や「遵守とは敬虔な理性そのものであること」などを証明したものである。しかし、特に3:19以降の後半部分では、このテーマからややはずれることも述べている。しばしば敬虔な理性の「ヒストリア」が挿入され、話の流れを中断している。テーマとヒストリアとを不自然に繋げようとしているのである。四マカ3:19-18:24は、エレアザル、七人の兄弟、母親に関する別のテーマといっていい(二マカ6:18-7:42を下敷きにしている)。

五世紀のフィロストルギウスは、後半部分はヒストリアではなくエンコーミオン(称賛演説)であると述べている。J. Freudenthalは四マカはシナゴーグにおける説教と考えたが、E. Nordenはそうではなく文学的な演説であり、フィロストルギウス同様エンコーミオンであるとした。Nordenによれば、前半部分がシンプルな哲学論文であるのに対し、後半部分はその自らの命題の正しさを証明する例としての称賛演説なのである。LebramもNordenの考え方に基本的に同意しているが、エンコーミオンという名称はどちらかというと詩文に使うものであり、散文ではエパイノスが適切であるとしている。この称賛演説は演示弁論の一種である。

本論文でのLebramの問いは、四マカ以前は殉教者の称賛は演示弁論の対象ではなかったのに、なぜ四マカ著者は称賛演説というジャンルを殉教者の称賛のために用いたのかというものである。そして、四マカ著者はこのことをした最初の人物なのだろうか。

そこでLebramが注目したのが、17:8にある架空の墓碑銘である。Lebramによれば、これは演示弁論の一種であるエピタフィオス(追悼演説)の特徴であるという。追悼演説は、戦没者のためになされる墓前での演説であり、アテーナイで発展した。四マカの墓碑銘のところでは、この書物のテーマである神への証しについても情念の克服についてもあまり出てこない。殉教という結果のみならず、演説の使用という点も父祖の地のための犠牲という思想から定められている。

四マカ著者は、ダビデの渇きの話など、殉教物語でない部分も要約して自身の殉教物語の冒頭に置いているため、追悼演説との類似性が分かりにくくなっているが、Lebramは追悼演説の代表例と比較することでその類似性を明らかにしている。追悼演説を含むプラトンの『メネクセノス』は、死者のための称賛と生者のための慰めとに分かれている。この後半の生者に対する慰め部分には、パラミューティア(奨励)、トレーノス(哀悼)、そしてアナケファライオーシス(要約)あるいは嘆きへの呼びかけなどといった特徴が見られる。四マカでいえば、17:7-18:19が要約、18:20-21が哀悼、18:22-24が奨励に当たる。

追悼演説のもうひとつの特徴である死者の称賛部分には、プラトンによると、その死者のエウゲネイア(生まれのよさ)、パイデイア(受けた教育)、そしてプラクシス(業績)が述べられているという。リュシアス、デモステネス、ヒュペリデスらの追悼演説では、この死者の称賛部分がさらに、その先祖の歴史的・時系列的な称賛と、その死者そのものの称賛とに分けられている。この「過去の先祖の称賛」+「現在に死んだ英雄の称賛」という形式をもとに四マカを見ると、ダビデの渇きなどの逸話は、この演示弁論の作法に則っていたことが分かる。図示すると以下のようになる:

演示弁論→追悼演説→
  • 生者のための慰め(奨励、哀悼、要約)
  • 死者のための称賛(生まれのよさ、受けた教育、業績)→先祖の称賛と死者本人の称賛
プラトンによる死者の称賛部分に重ねて四マカを読んでみると、その類似性がはっきり分かる。まず「生まれのよさ」の関しては、殉教者たちが気高い生まれのヘブライ人であり(8:2; 9:6, 18; 17:9)、徳があり(9:18)、アブラハムの子であることが明言されている(9:21; 18:1, 20)。「受けた教育」については、拷問を耐える力となる律法教育を受けたことが指摘されている(13:9, 22)。一見、殉教物語に教育など関係ないように見えるが、わざわざ言及されているのは、四マカ著者が演示弁論の作法に則っているからなのである。「業績」については、徳(アレテーあるいはアンドラガシア)のもとで殉教者たちの業績が要約されている(1:8, 10; 7:22; 9:8, 18, 31; 10:10; 11:2; 12:15; 17:23)。先祖に恥をかかせぬよう、殉教者たちは拷問を「耐えている(クラテレイン)」が、この語はヒュペリデスにもしばしば出てくる。

最後にLebramは、四マカに特徴的な4つの考え方が他の演示弁論にも出てくるかを検証している。第一に、暴君と殉教者との対立・対照という特徴については、演示弁論における暴君の典型としてのペルシア王の存在が類似点として挙げられる。四マカは、演示弁論の持つ暴君への対抗心や自由への希望といった傾向を借用して文学形式を整えている。第二に、父祖の地のために死ぬこととは律法を遵守することそのものであるという考え方は、ヒュペリデスらの演示弁論にもしばしば出てくるモチーフである。演示弁論の戦士たちが国家のために死んだのが法律に則った行為であったように、殉教者にとって、殉教の理由は律法が課した義務だったのである。第三に、敬虔さの姿勢に関していうと、神(神々)を信じないことは、演示弁論においても四マカにおいても、必ず敵の特徴であった。そして第四に、名誉の永遠性に派生する復活信仰である。演示弁論では、普通の人間の生の儚さに対する、戦死者の名誉の永遠性が強調されるが、四マカはこの死者の永遠性を復活信仰に結び付けている。すなわち、復活とは殉教者にとっては永遠の褒賞なのである。復活信仰の考え方自体は、二マカ12:44に父祖たちの復活といったかたちで出てくるが、これが四マカでは殉教者の復活信仰へと一歩進められているのである。

以上の四点をまとめると、四マカは殉教者の称賛を演示弁論の形式で表現したわけだが、その形式のもとで、殉教者たちは暴君に対抗し、律法を遵守し、そして敬虔さに準じつつ、永遠の生という恩恵に与っているのである。

Lebramは本論文で明らかにしたことを以下の3点にまとめている。
  1. 四マカの後半部分で、殉教者たちの描写は、当初の歴史的な描写との関係性から話され、演示弁論という現在の文脈に置き換えられている。
  2. 著者はこれらの演説にアテーナイの演示弁論の形式を与え、弁論術の学校における模範や文学的テクニックを与えている。
  3. 演示弁論は殉教物語を修辞的に処理することに適している。なぜなら、マカバイ時代のユダヤ教の思想――暴君への抵抗、律法や敬虔さのための軍事的戦い、殉教者の復活信仰――は、演示弁論の精神的態度に近いからである。

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