- Steven D. Fraade, "To Whom It May Concern: 4QMMT and Its Addressee(s)," Revue de Qumran 19 (2000): 507-26.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の読解を通じて、この文書の性格を分析したものである。の研究としては、大きく言って次の四分野がある:第一に、クムラン共同体におけるサドカイ派的な宗教法の輪郭、第二に、クムラン共同体の初期の発展とセクトのイデオロギー、第三に、ラビ的セクト論争以前の初期のラビ的説明、そして第四に、後期第二神殿時代におけるパリサイ派とその教えの影響などである。こうした研究の多くは、同書をクムラン・セクトによる外部に対する論争の書と考えることでなされてきた。しかし著者は、これをセクト内部(intramural)の文書であると仮定してみたらどうなるかという前提から議論を始める。
まずセクションBをよく読むと、『律法』の著者である「私たち」が、「あなたがた」と呼ばれている名宛人を一切批判していないことが分かる。むしろ共同体の集合的なペルソナである「私たち」は、積極的に「あなたがた」を自分たちに組み込もうとしている様子が伺われる。
セクションCになると、記述がより対話的(dialogical)になり、三人称「彼ら」に対する言及がなくなる。二人称は複数形「あなたがた」のときは、やはり「私たち」に含めていると読むことができる。それに加えてこのセクションでは二人称として単数形「あなた」も出てくるが、著者は申命記30章および31章などの例から、こうした奨励(hortatory)のスピーチでは二人称は単数形の場合も複数形の場合もあると説明する。単数形にすることで、名宛人に対してより個人的に語りかけているように感じさせるためである。また懐柔的な(conciliatory)な口調から、「私たち」と「あなた/あなたがた」との対立は激化していないさまを見て取ることができる。いうなれば、論争的(polemical)というよりも、教育的(pedagogical)なのである。
セクションAの暦を、多くの研究者は写字生による付加だと見なしている。しかしながら、著者によれば、セクションBがセクトの分離を正当化するための律法議論のダイジェストであるように、セクションCもまた、354日区切りの太陰暦を用いるイスラエルの大多数からの分離を正当化する太陽暦のダイジェストであるという。
主としてShelomo Moragらによる『律法』の言語学的分析によると、同書は話し言葉の比較的低級なヘブライ語であるという。そこから、著者は同書を公式な手紙や正統的なセクト文書ではなく、共同体への入会希望者などに対する教育的内部文書であると見なす。
以上が本論文の主張だが、個人的に興味深かったのは、L. Schiffmanが『律法』の中に『共同体の規則』との共通語彙がないと見なしているのに対し、本論文の著者は、両者はいくつもの重要なターミノロジーやアイデオロジーを共有しているという。いうなれば、『律法』で用いられている語彙から、同書がセクト的文書であると見なすことができるのである。
主としてShelomo Moragらによる『律法』の言語学的分析によると、同書は話し言葉の比較的低級なヘブライ語であるという。そこから、著者は同書を公式な手紙や正統的なセクト文書ではなく、共同体への入会希望者などに対する教育的内部文書であると見なす。
以上が本論文の主張だが、個人的に興味深かったのは、L. Schiffmanが『律法』の中に『共同体の規則』との共通語彙がないと見なしているのに対し、本論文の著者は、両者はいくつもの重要なターミノロジーやアイデオロジーを共有しているという。いうなれば、『律法』で用いられている語彙から、同書がセクト的文書であると見なすことができるのである。
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