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2020年12月5日土曜日

オリゲネスのヘクサプラ Grafton and Williams, "Origen's Hexapla"

  •  Anthony Grafton and Megan Williams, "Origen's Hexapla: Scholarship, Culture, and Power," in Christianity and the Transformation of the Book: Origen, Eusebius, and the Library of Caesarea (Cambridge, Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press, 2006), 86-132.

オリゲネスの『ヘクサプラ』について我々には3種の証言がある。第一はオリゲネス自身だが、彼は『ヘクサプラ』に直接言及しているわけではなく、2つのテクストで聖書の本文批評的な研究に触れており、そこからヒントを得ることができる。第二は4世紀のキリスト教作家たちの証言、そして第三は『ヘクサプラ』写本の2つの断片である。

第二のキリスト教作家たちとしては、エウセビオス、ヒエロニュムス、エピファニオス、ルフィヌスがいる。エウセビオスによると、彼はカイサリアの図書館で『ヘクサプラ』の実物を手にしたという。また彼はギリシア文字によるヘブライ語転写の欄の存在に言及しない。ヒエロニュムスはカイサリアで実物を見たばかりか、自分で『ヘクサプラ』の写しを持っていた。彼はヘブライ語の欄について言及している。エピファニオスとルフィヌスはヘブライ文字とギリシア文字で書かれた2つのヘブライ語欄を報告する。さらにエピファニオスは諸ギリシア語訳の並び順が成立順ではないことを断ってもいる。エウセビオスやヒエロニュムスは『ヘクサプラ』にサマリア人のテクストが入っていた可能性も指摘する。

第三の現存する2断片は共に詩篇に関するものだが、オリゲネスの時代からはかなり下る。またヘブライ文字によるヘブライ語テクストを欠いている。第一の断片は、1900年にCharles Taylorによって出版された、カイロ・ゲニザで発見された詩篇32の大文字パリンプセスト断片である。第二の断片は、1896年にGiovanni Mercatiによってその存在が発表され、1958年に出版された、ミラノのアンブロシウス図書館で発見された小文字写本である。これは諸ギリシア語訳の並べ方がカイロ・ゲニザ版とは異なっている。また小文字で書かれていることから、ゲニザよりもオリジナルとの距離が遠いと言える。一方で2つの断片にはオリゲネスのオリジナルに遡ると考えられる共通点もある。たとえば1行に1語のヘブライ語とそれに相当するギリシア語が配され、1ページにつき40行書かれている。

『ヘクサプラ』は同時代の書物から、形式においても大きく異なっている。3世紀においてはいまだスクロール形式の書物が優勢だった。一説では、スクロール形式とコーデックス形式は、それぞれ82%と18%の割合だったという。スクロール形式はパピルスに書かれていたのに対し、コーデックス形式は羊皮紙に書かれた。コーデックスのページに複数の欄が設けられることはあったが、見開きページに6欄も設けなければならない『ヘクサプラ』は例外的だった。キリスト教徒はコーデックス形式を比較的早くから受容していたが、『ヘクサプラ』はその傾向を加速させ、またその可能性を押し広げた。『ヘクサプラ』の全体はおそらく400葉(800ページ)のコーデックス40巻分に相当したと考えられる。

資金面はオリゲネスのパトロンだったアンブロシオスなどによって賄われた。『ヘクサプラ』作成のためには、書記の費用だけで75,000デナリ、羊皮紙などを含めると150,000デナリかかったとされる。ヘブライ文字の筆写のためには余計に費用がかかったであろう。オリゲネスの教師としての年収は7,000デナリほどだったようなので、彼自身にはとてもではないが無理だったが、年に6,000,000デナリは稼いでいたローマ司教コルネリウスなどにとっては出せる値段だっただろう。

オベロス記号やアステリスコス記号のような校訂記号については、『ヘクサプラ』の七十人訳の欄に書かれていたと考える者たちと、まったく別のプロジェクトだと考える者たちがいる。論文著者は、確かではないと断りながらも、後者に与している。

R. Clementsの研究によると、『ヘクサプラ』には2つの問題がある。第一に、ヘブライ語とギリシア語を両方読める者しかヘブライ語とギリシア語の欄を比較できないはずということである。この第一の問題について、Clementsは3つの可能性があり得るとする。第一に、オリゲネスはヘブライ語といくつかのギリシア語訳が載っている既存の梗概(シノプシス)を持っていたという可能性である。しかし、Clementsはこの説はありそうにないとする。なぜならば、ギリシア語を話すユダヤ人はギリシア語で礼拝することを何ら問題としていなかったし、またこの議論はヘブライ語のギリシア語転写の必要性を説明できないからである。さらに言えば、こうした梗概はアレクサンドリアよりもカイサリアにこそ当てはまる。

第二の可能性は、オリゲネスはヘブライ語と諸ギリシア語訳を比較できるほどヘブライ語に習熟した助手を雇っていたというものである。Nicholas de LangeやRuth Clementsらが取る立場である。オリゲネス自身がユダヤ人の情報提供者の存在について数多く言及していることから、この見解は支持される。

第三の可能性は、オリゲネス自身がヘブライ語とギリシア語を校合できるほどにヘブライ語に習熟していたというものである。オリゲネスは多少ともなりヘブライ語を知っていたことは確実であるが、助手を必要としていたこともまた確かである。ユダヤ人の助手に大きく依拠していたことと、多少はヘブライ語を読めたことは矛盾することではなく、これらの2つの可能性が補い合っていたのである。Clementsは、もともとアレクサンドリアでオリゲネス自身が作成した『テトラプラ』に、カイサリアで雇ったユダヤ人助手がヘブライ語の欄を付け加え、『ヘクサプラ』になったと考えている(エウセビオスは『ヘクサプラ』の簡略版としてのちに『テトラプラ』が作成されたと報告している)。

Clementsが『ヘクサプラ』に見出す第二の問題は、七十人訳の底本のヘブライ語テクストと、オリゲネスの時代のヘブライ語テクストとは異なっていたはずという問題である。死海文書中の発見によって、七十人訳者が依拠したヘブライ語テクストは、後1世紀までにユダヤ人の間で基本となったプロト・マソラー本文と、さまざまな点で異なっていることが判明している(エレミヤ書に見られる時系列の差異など)。

『ヘクサプラ』の第5欄については、校訂記号が付されていたのかどうかという問題もある。多くの研究者は『ヘクサプラ』に校訂記号が付されていたと考えてきたが、実際には『ヘクサプラ』とは別の改訂七十人訳に付されていたものではなかったのか。実際ヒエロニュムスは校訂記号を『ヘクサプラ』ではなく独立した七十人訳テクストで見ていたようである。論文著者はPaul KahleやJennifer Dinesらと共に、『ヘクサプラ』に校訂記号を付すのは余分であり困惑するものだと判断する。余分というのは、七十人訳にはあるがヘブライ語や諸訳にはない部分が『ヘクサプラ』に出てくる場合、七十人訳の欄だけに文章があることは一目瞭然なので、記号をつけるまでもないからである。困惑するというのは、七十人訳にはない部分を『ヘクサプラ』上でわざわざ別の欄から埋めて、それにアステリスコス記号をつけることは、差異を曖昧にするだけだからである。

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成した目的については多くの議論がある。Henry Sweteによれば、オリゲネスは、よりヘブライ語テクストに近くなるように七十人訳を修正しようとしたと考えた。一方でPierre Nautinは、原典ヘブライ語テクストを再構成しようとしたのだと主張した。Sebastian Brockは、オリゲネスのテクスト研究は聖書解釈についてユダヤ人と論争するキリスト教徒のためになされたと述べた。Adam Kamesarは、聖書解釈の可能性を最大限に高めるために可能な限りの異読を集めたのだと論じた。Ruth Clementsは、キリスト教内の異端やユダヤ人に対する武器にするために、キリスト教信仰の領域内でヘブライ伝統を包摂しようとしたのだと見た。

論文著者はClementsに同意しつつ、『ヘクサプラ』に関する第一の証言であるオリゲネス自身の議論を分析する。すなわち『アフリカヌスへの手紙』と『マタイ福音書注解』である。アフリカヌスはダニエル書の付加部分にはギリシア語の言葉遊びがあることから、ヘブライ語テクストに元来存在したものではなく、ゆえに権威が劣るのではないかと、オリゲネスに手紙で尋ねた。これに対しオリゲネスは、そうした言葉遊びは失われたヘブライ語原典にも存在したのであり、それをギリシア語で再現しているにすぎないと反論した。七十人訳とユダヤ人の版の版との違いは、ユダヤ人による聖書の改変ゆえのことである。そこでオリゲネスは状況を現実的に判断した結果『ヘクサプラ』を作り、ユダヤ人との論争に備えたわけである。これは学識深いユダヤ人に対し生まれたばかりのキリスト教徒の主張を助けるためのツールだった。

『マタイ福音書注解』では、自分が七十人訳を「癒す」ことを試みたことを報告している。すなわち、七十人訳の諸写本(アンティグラファ)を比較し、また七十人訳を含めた諸訳(エクドセイス)を比較したのである。基準である諸訳やヘブライ語テクストに基づき、協会で受け入れられた霊感を受けたテクストである七十人訳の統一性を保存することを目指した。これこそが『アフリカヌスへの手紙』で述べられていた対ユダヤ人論争のためのツールという第一の目的に対し、第二のより中心的な目的であった。John Wrightは、オリゲネスがさまざまな諸訳を『ヘクサプラ』に集めたのは、テクストの意味をアンプリファイし、よりよい読みを決めようとしたのだと述べている。Adam Kamesarは同様の観点から、オリゲネスの試みを「釈義的マキシマリズム」と呼んでいる。

死海文書の発見によって、当時の聖書写本の状況がいかに複雑であるかが分かってくると、その複雑さを『ヘクサプラ』の特定の翻訳だけに絞り、意図しないまま権威付けてしまったオリゲネスの行いは早計だったとも言える。こうした際限のないテクスト的・翻訳的多様性の文脈においてこそ、『ヘクサプラ』の本質と機能は十全に理解できる。

『ヘクサプラ』はオリゲネスの時代の文献学における技術の状況を如実に伝える。これはローマ時代の学術の最も偉大な記念碑の一つであり、ギリシア文献学と文献批評をキリスト教文化に適用した最初の重要なプロジェクトだった。また当時の製本技術の限界を押し広げる役割も担った。いわばギリシア文化とヘレニズム・ユダヤ教文化のフュージョンの中で、生まれたばかりのキリスト教的学術を例証してみせたわけである。

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